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プラトーノフ『名もなき花』冒頭

 Жил на свете маленький цветок.
 小さな花がこの世界で生きていた。

 жил は жить(生きる、生活する)の過去形ですね。語順を崩さず無理やり英語に訳すと Lived in the world a little flower.  英語ではまずあり得ない語順ですが、語順が比較的自由なロシア語ならでは。倒置法の効果を生み出しています。

 Никто и не знал, что он есть на земле.
 それが大地にあることさえ誰も知らなかった。

  никто は英語の nobody で、не знал すなわち didn't know が来るので nobody didn't know となりますが、意味は真逆で「誰も知らなかった」。ロシア語における否定表現の特徴の1つです(なお、и はここでは「〜さえ」の意味)。

 Он рос один на пустыре; коровы и козы  не ходили туда, и дети из пионерского лагеря там никогда не играли.
 それは荒地で一人育っていた。牡牛も山羊もそこには行かなかったし、ピオネール・キャンプの子どもらもそこで遊ぶことはなかった。 

 ソヴィエト時代には пионер(ピオネール)という共産党少年団が各地にあり、夏休みや冬休みの間に子どもたちが保養施設でキャンプする行事があったそうです。ボーイスカウトのようなものですね。最後の文は не играли(didn't play)が文末にあるので、語順がまるで日本語みたいになっています。

 На пустыре трава не росла, а лежали одни старые серые камни.
 荒地では草は育たず、ただ古い灰色の石たちが転がっているだけだった。

 одни は один(数字の1)の複数形です。1の複数形って何やねん!と思いますが、ここでは「ただ〜があるだけ」と強調する意味で使われており、強調される語の камень(石)が камни(石たち)と複数形になっていますから、それに合わせて複数形にしなければなりません。連なる名詞の単数/複数に合わせて個数詞も変化する(勿論、格変化もする)所にロシア語らしさが表れています。

 以上はアンドレイ・プラトーノフの短編『名もなき花』の冒頭部分です。
 普段、私はロシア文学の作品を読むに当たっては、日本語訳されたテクストのみにしか目を通さず、逐一原文に当たることはしておりません。しかし、やはり異なる言語間においては、表現されるものの意味が綺麗に一対一で対応しているわけではないため、必ず何かしらの(僅かなものであっても)ズレがあります。例えば、ロシア語で  цветок(花)は男性名詞です。なので、その代名詞は 、上記の原文にもありますが、 оно(英語の it)ではなく он(英語の he)ですね。これは外国文学の翻訳で頻繁に出てくる初歩的な問題なのですが、名詞に性を持たない日本語等では大して気を遣わないものの、本来であれば上記の原文ではやはり「それ」ではなく「彼」というニュアンスになります。また、タイトルの ≪Неизвестный цветок≫(『名もなき花』)も、『知られざる花』、『有名でない花』といったニュアンスがあり、英語では≪Unknown flower≫と訳されています。微妙なニュアンスの違いが伝わるでしょうか。

 その独特で鋭敏な感覚を持つアンドレイ・プラトーノフは、人間以外の生き物や無機物を含むあらゆるものたちに遍く眼差しを向け、それらの声なき声に耳を傾ける作風で知られ、この童話風短編小説の主人公である一輪の花も、石ころだらけの荒地で健気に生きる存在として、慈しみや憐れみが込められたようなタッチで描写されています。ただ、彼の場合は、伝統的なキリスト教に則った慈愛というより、他言語への翻訳が困難ともされるロシア語の情念<тоска(タスカー)>(「空無」、「郷愁」等と訳され、ポルトガル語の<saudade(サウダーヂ)>に近いとも言われる。)によるものです。彼の出自や経歴にも、ロシア正教との関連を思わせるものは特に見当たりません。多感な青春時代真っ只中でロシア革命を迎えた彼は、その理念から相応の影響を受け、土地改良技師として働いていた若かりし頃は、社会主義国家の建設の歯車の一部となることに一定程度の情熱を傾けていました。そんな彼に、マルクス言うところの「民衆のアヘン」である宗教の理念が入り込む余地は、あまりなかったのではないでしょうか。

 この作品は、短いながらもプラトーノフの世界観を端的に知ることができる秀作です。また機会を見つけて、続きをご紹介してみたいと思いますので、その際はよろしくお願いいたします。