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早慶のコスパ等について(エッセイ)

 「早慶のコストパフォーマンス」についての話題をSNSで見かけた。

★★★

 約四半世紀前であるが、1999年、当時高校3年生であった私は、趣味である音楽のことしか考えておらず、大学に進学することは考えていなかった。ありきたりではあるが、敷かれたレールの上を進むようなことに対しては、青臭いながらもどことなく反抗心を抱いていた。周囲(の多く)と同じように勉強するということ自体が、私にとっては何か面白くないなと感じていた。
 未来のことはほとんど何も考えていなかったに等しい。全くのこじつけではあったのだが、当時1999年はノストラダムスの予言「1999年7の月に人類滅亡」が世間でよく知れ渡っており、ただ遊びたいだけだった私は「予言者だかもそんなこと仰ってたってんならまあ、先のことなんて真剣に考えなくってもいいやな!」と、とにかく毎日を楽しく暮らそうということで、遊び仲間たちとともに、今思い返しても楽しかったと思える日々を過ごしていた。まあ、なるようになるだろう、なるべく今のことだけを考えよう──そんな思いで高校3年の秋まで辿り着いた。勿論、ノストラダムスの予言なんてものは大振りで空を切ったのだった。
 私の高校の同級生たちは、大学に進学した者も勿論多かったが、私の周りでは、デザインや映画、音楽その他一芸の道に進んだ者もいる。特に、国内屈指のアニメ脚本家として大成したS君は、大学進学だけが進路の全てではないということを私たちに強く印象づけることとなった。
 高校3年の秋、私は、高校卒業後の明確なヴィジョンも持ち合わせておらず、「音楽をやるんだい!」とか何とか言いながらも、具体的に何らアクションを起こしているわけでもなかった。結局、ご多分に漏れずモラトリアム人間とならざるを得なかった私は、まだ将来の道を決めるのには早過ぎるという頓悟に至り、10月下旬頃だったか11月頃だったか、もはやそうするしか術はなく、受験勉強というものを始めてみた。それは、遅すぎるスタートであったと思う。
 それまで学校の授業も真面目に聴いておらず、内職をしたり、寝たり、外にサボりに行ったりしていた。つまり、学校の勉強というものをそもそもしておらず(とはいえ、留年しない程度にはしていた)、大学受験に対する基礎というものが全くできていなかった。幸いにして、国語に関しては勉強せずとも好成績ではあったが(これはよく聞く話である)、一方で、大学受験に必須の英語に関しては、全く受験に耐え得る水準になかった。苦手としていた理数系科目は言わずもがなである。
 受験までの期間が残されていない中、武器という武器を国語以外にほとんど持っておらず、前途多難を思わせる船出であったが、まずもって喫緊の課題であった英語については、私の2歳年上の姉から自宅で習うことにした。理数系科目は、高校3年の11月頃から付け焼き刃でどうにかなるという気が全くしなかったため、勉強の効率を考え、スッパリと諦めた。
 あとは社会科であるが、学校で選択していた日本史は授業も碌に聴いておらず、また、そこまで興味があるわけでもなかったということもあり、何となく競争相手が少なそうだなということで政治経済を勉強してみることとした。といっても、何をしてよいか分からないので、学校の授業で使う資料集にひたすら目を通すだけという勉強法であった。それでも、私の興味関心が多少なりともあったため、比較的スムーズに知識が身に付き、学校の試験での政治経済の偏差値は60台中盤ぐらいになった。
 私は塾や予備校には行かず(そういえば、いわゆる学習塾や予備校の類には人生で一度も通ったことがない)、毎日の受験勉強といえば、大学生の姉から自宅で習う英語と、自分流の政治経済の資料集読み込みの繰り返しであった。とはいえ、政治経済は、このままの勉強法では新たな知識の開拓の余地がなく、そのうち頭打ちとなってしまうことは火を見るよりも明らかであった。理数系科目は捨てていることから国公立大学への合格はまずあり得ないということもあり、冬のある日(12月だったと思う)、政治経済の知識量の積み増しを図るため、早稲田大学政治経済学部の過去問題集を購入した。
 全く勉強をしてこなかった者がいきなり早稲田大学、それも政治経済学部なんて身の程知らずも甚だしかったかもしれないが、先に記したとおり、その過去問題集はあくまで政治経済という科目の勉強のために買ったのである。当時の私は、どうやら早稲田大学の政治経済学部というのが日本の大学の政治経済系学部の最高峰に位置するらしいということを知り、そうであるのならその学部の過去問題集の政治経済の問題を解けばかなりのエクササイズになるだろうと踏んだのだった。結果として、政治経済の偏差値は、最終的に60台後半程度にはなったように記憶している。
 そういう経緯もあり、私は政治経済という科目が好きになった。折しもその頃(1999年12月)、NHKで『映像の世紀』シリーズが放送されており(どうやらそれは1995年から1996年にかけて放送されたものの再放送であったようだが)、当時18歳だった私は、その番組に感銘を受け、政治経済への関心をより一層抱くに至ったのだった。モノクロ(途中からはカラー)の映像が私の網膜に運んでくる、幾多の光の像たち──繰り返される歴史、悲惨な戦争、時代に翻弄される民衆たち、そして人間の愚かさ──、私は、せっかく進学するのであれば政治学系の学部ないし学科にしようと思った。朧気ながらも高校卒業後のヴィジョンが、私にとって初めて、手に掬った水の表面にうっすらと反射する像のように、垣間見えたような気がしたのだった。
 ということで、早稲田大学の政治経済学部を受験しよう!……とは、さすがにならなかった。浪人生を含めた大学受験グラップラーの猛者たちが群雄割拠する中、2~3か月前までは受験の受の字もなく、ただ毎日遊び呆けていただけのポッと出の人間が、ほぼゼロの状態からこの超難関に付け焼き刃で軽く合格できてしまうほど世の中は甘くないのだと、青二才ながらも私は分かっていた。つまり、合格できるという自信はなかった。もし受験していたらどうなっていたのかは分からないが、さすがに政治経済学部は……。
 駄目で元々で受けるだけ受けてみて、滑り止めでどこかを併願すればよかったのかもしれないが、結局は堅実な橋を渡ることとし、2月初め頃、いわゆるMARCHの一角を成す某大学(政治系の学科)のみ受験し、正直な感触とともに記せば、割とすんなり合格した(早稲田の政経の過去問を解いていたので、試験問題が比較的楽に感じられたのかもしれないが)。周囲の友人は、短期間での私の合格に驚いてはいた(繰り返すが、所詮MARCHであるが)。学校の担任も驚き、合格体験記を書くよう私は学校から頼まれ、参考になるとは全く思えないが、「大学なんて行かん。毎日遊んで暮らす!」等と訳の分からないことを宣っていた人間が、ほぼゼロの状態から2~3か月で、大したことはないがまあまあの大学に合格するまでの心構えのようなことを書いた(その合格体験記は、他の合格体験記とともに一冊にまとめられ、次年度の受験生たちに配布されるとのことだった)。

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 冒頭の「早慶のコストパフォーマンス」については、早慶を受験していない私に偉そうなことを申し上げる資格など全くないことは言うまでもないだろう。ただ、受験準備がゼロの状態から2~3か月で東大や京大を受験することなど愚の骨頂と言うほかないのに対し、早慶であれば、私より優秀な人であれば、2〜3か月頑張れば手が届く人もいるのではないかなとは思う。将棋アマ初段でしかない私の印象でいえば、研究範囲を広くカヴァーしなければならない居飛車党が国公立大だとすれば、早慶を含む私立大は、ある程度勉強の範囲を絞ることができる振り飛車党に例えることができるかもしれない
 以前、ネット上であったか書籍であったか、将棋のアマ初段になるまでに要した期間について、居飛車党と振り飛車党とで差があるかの調査について述べられたものを読んだことがある。それによれば、調査の結果では、居飛車党と振り飛車党との間に有意差は認められなかったとのことだった。そうすると、居飛車も振り飛車もそれぞれの大変さがあり、どちらがより楽でコスパが高いということは一概には言えないと考えるのが自然ではある。
 とはいえ、勉強量ということでいえば、勿論居飛車党のほうが大変ではあると思う。書籍で読んだ記憶では、少なくともアマ将棋においては、居飛車党は振り飛車党の確か2倍弱ぐらいの勉強が必要であるとされていた。将棋は、序盤から中盤にかけては定跡の知識が物をいうフェーズであり、研究していなければたちまち不利になる虞がある。顕著な例では、互いが居飛車を指す相居飛車において、「知らなければ即敗勢」という変化が其処此処に潜んでいる一触即発の戦型「横歩取り」がある。居飛車党であっても、勉強の負担軽減のためにこの戦型を避ける人は一定程度いる。なので、「横歩取りどんと来い!」という人は、それだけでも自分の将棋に自信を持ってよいと思う。
 一方の振り飛車は、自ら進んで乱戦に突入するようなことさえなければ、序盤はまず大過なく進めることができるので、中盤以降を知識より力で乗り切ることも可能である。勿論、読みや構想で局面を切り開く将棋も、それはそれで頭脳を駆使するのであるから、大いに評価されるべきだろうし、中盤から終盤の入り口辺り以降は、定跡等の知識よりも計算力や判断力、勝負勘が求められ、それらは居飛車であっても然りである。
 これらのことを勘案すると、例えアマ初段までの到達期間において居飛車党と振り飛車党との間に有意差がないとしても、当該期間の間に勉強した量の比較でいうと、居飛車党のほうがやはりその量が多かったといえるのではないかという仮説も十分に成り立ちそうである。もしこの仮説が成り立つのであれば、少なくともアマ初段までであれば、定跡の勉強に馴染みやすい者が居飛車党になる傾向があるということもいえるのかもしれないが、どこまで行っても推測の域を出ないものであるため、これ以上の言及はここでは控えることとする。

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 以上、私の思い出とともに(というより、それが大部分を占めてしまったが)、大学受験の勉強を将棋によるアナロジーを用いて語ってみた。いずれにもいえることは、学歴にせよ段位にせよ、ただのメルクマールの1つに過ぎないという至極当然の結論である。特に大学についていえば、例えば福澤諭吉による慶應義塾の設立の趣旨は、学問の機会を広く与えることであったと私は記憶しており(中世に端を発し、そのベースに神学があるヨーロッパの大学とは根本の所で異なるのだと思う)、決して学歴による序列を作ることではなかったし、そもそも、学歴がどうであれ、その人と接するうちにその人がどの程度の人であるかは自ずと分かってくるものである。
 されば、大学に関して「世間の評価」という指標をめぐってのコストパフォーマンス等ということはほどほどにしておいて、それぞれの学問の探究に勤しむことをその本義として改めて心得られたいところである。

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