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興味と向き不向きの続きの話

どうも、Wasaです。

以前、別の記事でも少し触れたことなんだけど。
今日は自分が裏方として仕事をやるにあたって一つの気付きがあったので書いてみようと思います。

上記の記事で、自分は裏方に向いてないなーって話をしたんだけど。

最近自分があらためてそういう裏方仕事をやっていく中で新しい感覚に出会ったというか。

まず前提として裏方をやるなら、裏方仕事としての在り方みたいなものがあるんじゃないかという思いがどうやら自分の中にはあるようだ。

そして向いていないというよりは元々の出身が出役だし、やりたいことのウエイトがそもそも出役側なので、出役としての部分にフォーカスして考えていたけど裏方として徹するのであれば僕の中にもそういう美学があるということに気づいた。

最近の裏方的なことをやってる人って、それを自分がやりましたということを声高らかに発信する人が多くなっているように感じてるんですよね。
もちろん、それは間違いではないし別に悪いことでもない。
昔と比べて個人が発信していきやすくなった結果だとも思うし、むしろいいことですらあると思う。

ただ、そういう人が多数派となりそれが現代の裏方としての在り方となったときに自分はそこに当てはまらなかった。

ただそれだけの話。

ちょっと見方を変えるんだけど。
出役には出役のプライドというか背負ってるものがあると思う。
もちろん、仕事として多方面の方の力を借りているし一人の力では限界もあるだろう。
だから周囲に対して感謝ももちろんあると思う。

だけど、出役とは自分が看板となり良い面だけでなく悪い面も含めて”矢面につ”覚悟で常に作品を出していると思うんだ。

批判を受けるのも、仮に事務所や周囲の大人の判断の下だとしてもそれを真っ先に食らうのは最前線で顔をさらけ出している出役なわけだ。

その分、良いものを出せたときにそれに対して称賛されるのもまたそういった立場の人だろう。

その人たち自身の力や努力、覚悟の結果が作品という形で世に出ている。

その威光を陰から自分も浴びようと群がることが自分としては何かどうも釈然としないなーと。

話を戻そう。

僕は以前からどうも自分が提供した作品の”その後”に興味が持てなかった。

でも周囲のクリエイターはそれがどこで使われた、どう使われたなどといった形で自分がやったことをどんどんシェアしている。

自分にはそれがなかなかできなかった。
どうなったかあまり知ろうともしなかった。

別にそういう形で何者かになろうと思わなかったから。

もちろん、エンドクライアントにどう届いてそれが誰かの幸せの一部になれたら素敵なことだとは思う。
だから興味を持てるのもとても良いことだとも思うし、ある種羨ましくすらある。
そこまで想像できた上で取り組めるということはむしろ必要なことだとも思う。

でも、自分と向き合った時にふと気づいたんだ。

多分僕は自分を選んでくれた、自分が携わった相手。
お仕事相手の方に対してのみ向き合ってその人自身に満足してもらえたかどうか。
そこが全てであり、その先のエンドクライアントの為ではなくあくまで自分の目の前にいるクライアントの方が全てなんだなと。
その人が喜んでくれたら、ありがとうの一言がもらえたら。

僕はもうそれ以上を望めないし、満たされてしまう。

自分の全然知らないところで知らない人たちに、自分が作ったということすら知られずに誰かの作品として自分の作品が愛されている。

そんな遠くの出来事よりも、目の前の人のありがとうがあればそれでいいやって。
そう思えてしまう。

そのマインドはわりとそれこそ出役としての活動面でもやはり出ているようで。

広く知ってもらえたらもちろん嬉しいし、多くの人に共感を得られたり応援してもらえたらそれはとてもありがたいことだと思う。

でも、そんな規模感なんてのは本当はどうでもよくて。

僕の見える範囲の中で、僕に興味を持ってくれた人たちへ。
ありがとうって伝えられる距離。
ありがとうって言ってもらえる距離。

それが自分にとってのちょうどいい塩梅なんじゃないかなって。

きっと広いライブホールより、キャパ100人くらいのライブハウスでこじんまりと好きな音楽やれる方が性に合ってるんだろうなって。

そんなことを思いました。
このnoteもそう。

ごく少数でもいい。
興味を持ってくれて、共感してくれるそんなマニアックなアナタに向けて。

これからも届けていきたいと思います。

ではまた。

Wasa

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