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一番村上春樹らしい『カンガルー日和』

村上春樹の短編集の中で、最近特に好きになった『カンガルー日和』という一冊があります。

もともとは、伊勢丹サークルの会員向けに配る『トレフル』という雑誌に書いた作品をまとめたものです。長さも原稿用紙8枚から、長くて14枚ほどの分量だとあとがきに書いてあります。

一般の書店には出回らない雑誌なので、のちの長編『羊をめぐる冒険』などの断片を書いた実験作や気楽に書かれたスケッチのような小品が並びます。

おそらく、依頼がきた中から自由に書ける雑誌を探していていたんでしょうね。それが『トレフル』だったと。

内容は、その執筆背景が良く作用して、気楽に書かれた(ように読める)春樹ワールド全開です。

とても個人的な、シュールで、社会的メッセージの重みがありすぎない、それでいて自由な春樹エッセンスの中に文学性が融合されています。

日常の一コマを春樹テイストで切り取った「カンガルー日和」は教科書にも掲載されています。

他にも、教科書に掲載されている「鏡」は「もう一人の自分」という村上作品のテーマの原型と言えます。鏡に映った主人公の像は、『ねじまき鳥クロニクル』の綿谷ノボルを思わせます。

のちにあの大作『1Q84』につながる、イマジネーションの行き着く先が切ない「4月のある晴れた朝に100パーセントの女の子に出会うことについて」は短編の中ではファンからの人気も歴代屈指の作品で、村上春樹自身も愛着を持っています。また、自主制作で映画化したいというオファーが続出したそうです。

『羊をめぐる冒険』の原型になった短編に「彼女の町と、彼女の緬羊」「5月の海岸線」「図書館奇譚」があります。

『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を思わせる短編「かいつぶり」「サウスベイ・ストラット―ドゥービー・ブラザーズ「サウスベイ・ストラット」のためのBGM」もあります。

他にも、奇妙なタクシー運転手に出会う「タクシーに乗った吸血鬼」、ペン・ソサエティーという手紙の添削を行う青年の話「バート・バカラックはお好き?」、文壇を寓話の形で痛烈に批判した「とんがり焼の盛衰」など、好きな作品ばかりです。

村上春樹の「軽み」が一番発揮された作品集だと思います。

そして、それと同時に文学的責任を負わずに書きたいように書いた最後の小説たちだと思います。

その後、村上春樹は『羊をめぐる冒険』を書き、『螢・納屋を焼く・その他の短編』という短編集を出版します。

「螢」、「納屋を焼く」、「めくらやなぎと眠る女」が特に素晴らしいのですが、この短編小説たちは既に、文学しているのです。成熟した、正統的な日本文学になりつつあることが分かります。

村上春樹は、本格的なストーリーテラー、大作家になるための準備を『カンガルー日和』で行いました。

それは同時に、脱カルト作家に向けた実験でもあったのです。

その後の短編集も良いですが、僕は出先で小説が読みたい時は『カンガルー日和』と『螢・納屋を焼く・その他の短編』の2冊を鞄に入れます。

ポップな『カンガルー日和』と、折り目正しい『螢・納屋を焼く・その他の短編』。この2冊があれば事足ります。どちらもとても薄いから持ち運びやすいのもあります。

新作の大長編『街とその不確かな壁』は、あの『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』やその原型である中編小説『街と、その不確かな壁』の再挑戦のようです。

最近、『カンガルー日和』のようなポップな魅力に病みつきなだけに、再び春樹ワールド度数の高い小説が読めたら良いな。

発売日が楽しみです!

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