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rei『生きてるだけで、疲労困憊。』-ホームランを狙う前にまずバットを振るしかない-

まず最初に本書の公式紹介ページと概要のリンクを掲載しておく。

0. 導入

かなり前にヘッダーの画像をSNSで見かけた。「できるけど疲れる」ことは発達障害を有していなくてもいくらでもある。たとえば、私はCOVID-19に脅かされはじめた2020年からずっと在宅勤務をしているが、オフィスに出社すること自体に苦痛を覚えるようになった。自宅には作業に向いた机やイスがないため、作業効率を考えれば出社した方がいい。それでも自宅の方が快適だし、体調が悪くなったときに横になれるのが自分にはとてもありがたい。

最近は個人を尊重する風潮があり、「そのままの自分を好きでいよう」とか「無理しなくていいよ」などの魅惑的な言葉をよく目にするようになった。無理をしなくていいのであれば、「できるけど疲れる」ことをやるのは無理をすることになるから、できるだけ避けたいし、避けてもいいということになる。しかしそうは問屋が卸さない。ヘッダーの画像の主旨とは異なるが、自分が何かを「できる」と思うのはどのような条件で可能なのか。実際にできた経験があれば「できる」と思うのは当たり前だろう。また、実際にやったことがなくても、これまでの経験を踏まえて「できる」と判断することもあるだろう。

1. 「できる」という表現

ここで考える「できる」とは、「実行する能力や可能性がある」くらいの意味であると理解してほしい。たとえば、私は梅干しが好きではない。これを「梅干しを食べられない」と表現することが多いが、より正確にいえば「梅干しを食べたくない」になる。私は梅干しを食べる能力はあるため、能力(たとえば嚥下困難であるなど)を理由として「食べられない」と表現することは誤りである。

次に「勉強ができる」について考える。小学校に入学して最初は漢字を書いたり足し算をしたりする。勉強を始めてすぐの段階では、その人が勉強が得意かどうか確認することは難しい。ほとんどの人は漢字を書いたり足し算したりできるようになるため「漢字を書ける」「足し算ができる」はおおむね正しいといえるだろう。
私の経験では中学校以降はテストの点数にかなり差がついてきた。このあたりから、個人個人で「勉強ができる」という言葉が示すレベルが異なってきたと考えている。ふだんから90点以上とれる人が80点を下回ったら「(自分にとっては)できなかった方だ」と思うし、ふだん30点の人が50点とれたら「(自分にとっては)できた方だ」と思うだろう。勉強以外にも、運動や芸術は人によって得意不得意に差がある。私は絵が苦手だがレタリングは得意であったため、通知表での評価はまあまあであった。絵が得意になることはなかったが、苦手なりにうまくやろうと試行錯誤したことで私は十分であると考えている。「お前は絵が下手だな」とか「足が遅いぞ」と言われても特に気にしない。この話は自己肯定感をどう高めるかという話につながると思うが、深入りする気がないためここでは議論しないことにする。

2. できるかできないかはやってみないとわからない

ひらがなや計算、運動や芸術の習得スピードや到達できるレベルは、やってみないとわからない。ある程度は遺伝的な要因もあるため、「頑張ったからできるようになった」のか「もともとその才能があって、それが発現しただけ」なのかは誰にもわからない。分野のトップ層は才能や環境に恵まれていたということを否定するのは難しいだろう。ほとんどの人はどれだけがんばっても東京大学には入学できないし、プロスポーツで一線級の活躍をすることもできないし、国際的なバイオリンコンクールで優勝することもできない。その道を極めることができる才能や環境要因を、個人のがんばりでひっくり返すことは困難である。勉強のことになると学力や学歴の勝者が「勉強はがんばりが実を結びやすいのに、なぜやらないのか?」などという人がたくさん現れるが、偏差値60だって上位16-17%の人しか取ることができない。勉強に限らず、あらゆることについて序列をつければ偏差値50以下の人が半数現れる。自分のいる環境が世界のすべてであるというのは錯覚であり、他の分野では自分の「常識」(実際は常識でも事実でもなんでもない)が通用しない。「やろうとしない」とか「やってもうまくいかない」ことなどいくらでも存在する。

少し話が脱線してしまったので話をもどそう。そうであるならば、個人でがんばってもしかたないのだろうか?私は、才能や環境が無視できない要素であるからこそ、個人でがんばってみることの重要性を主張したい。冒頭で例示した「無理しなくていいよ」という言葉をうのみにしてはいけない。もちろん体を壊さないようにするべきではあるが、過度に解釈して全く背伸びをしないようになると、自分はそれ以上何も変わらない。多少無理をしてはじめて世界が広がる。とりあえずやってみて体で感じて・覚えてから、自分がその道をもう少し進んでみたいと思えるかどうかを決めても遅くない。「自分なりにここまでやって、できるようになった・ならなかった」という体験に価値があるのであり、その結果はオマケ程度である。やってみることで自分のパラメータ配分の概要をつかみ、パラメータが不足している部分があっても「まあいいか」となかば諦めた方が精神的によい。そこで自分を追いこんでパラメータを強化しようとするのはかまわないが、最終的にはどこかのタイミングで妥協する逃げ道を用意しておいた方がよい。
ちなみに、私はこの文章において「努力」という単語を使わなかった。インターネットで調べた限り、辞書的な意味は「休んだり怠けたりすることなくつとめ励む」「力を尽くす」というものらしい。この意味での努力を私はしたことがないし、おそらくできない。だから「やってみる」など、もう少し気楽に物事に挑戦してみることがふつうの人にとっては有用であると考えた。現時点でやったことがないことやできないことに挑戦せずに人生を歩むことは、社会がそうさせてくれない。仕事で「やったことがないからできません」は通用しない。よい結果が得られる方が喜ばしいことは認めるとしても、結果にばかり目がいくと他人と「身分」が異なる、すなわちうまくいった人には優れた才能や環境があり、自分にはそれらがないダメなやつだと錯覚しかねない。一発逆転のホームランを狙う前にボールにバットを当てる必要があり、そのためにはまずバットを振らなければならない。人生において自分なりにバットを振ることは制限されない。振るかどうかは自分で決めるしかない。

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