飛び級の存在意義

初投稿です。

私がここで言いたいことは大学教育、ひいては社会の現状について。

手前味噌だが、私は千葉大学を飛び級入学して、そのまま1年早く東大大学院に入学しました。

今は宇宙物理学を学んでいて、すでに一本、論文を書いています。東大での卓越大学院にも選ばれ、天文学夏の学校という若手の集まりで、自身の研究発表をして最優秀賞に選ばれた。順風満帆と、人から言われるような日々を送っている。

ここまで、みると、ただただ自慢したいだけだろ!と突っ込まれそうですが、まあそう(笑)

ただ、それが言いたいことの全てでは決してありません。

「飛び級しました」と事実のごとくいうと、「えっ、すごい!」みたいな反応は言われます。ただ、飛び級って蓋をあけてみると、必ずしもいいものではない。
というのも、年上の後輩というのが日常になる。当たり前だ。国立大ならだいたい1浪。別に、一浪を攻めていると思われてほしくない。問題は、一浪で、年上であるがゆえに、ものすごいマウントを取ってくることだ。

「君のほうが、学年が上かもしれない、けれど、経験年数はこっちのほうが上だ、君なんて若い若い」

たかが一年差じゃないか!という気持ちになる。こういうことは一度や二度ではない。年上の後輩や同級生というのは、おおっぴらにしてしまうとこれほどまでにやりずらいのかと感じる。

これは、おそらく日本特有だろう。

海外大学院に進学した飛び級先輩の話を聞くこともあるが、むしろ、若いがゆえの経験、知識不足を直接指摘されることはあっても、年齢についてとやかく言われることはない。

私は今、東大大学院にいるので、一浪率は実は結構上がる。物理なので、半分ぐらいは一浪してる。飛び級であることは隠しているが、もし言ったら今のように比較的過ごしやすくならないだろう。

よく、「1期生がトラック運転手になった」という面白半分の記事を目にする。おそらく、日本の飛び級ではこの情報がもっとも有名だろう。

この記事の本質は「日本が研究に対し、全くお金をかけない」現状を訴えたものである。

つまり、「飛び級をするような優秀な人でさえ、研究競争から脱落し、トラックの運転手をする現状にある」というものだ。確かに、日本は研究者にあまりにもお金を渡さない。現在、円安が進んでいるとはいえ、ポスドクの収入はアメリカの1/2以下という現状がある。30代になってもお金がないせいで家庭をもてないなど、様々な弊害を生んでいる。そりゃ、出生率もさがるわけだ。

けれども、私がここで言いたいのは、1期生のトラック運転手が自ずから選んだ道であり、研究云々について述べる材料にはなりえないだろう。たしかに、給料が少ないことは研究者を辞める一つのりゆうだったかもしれないが、その人が納得して選んだことにとやかくいうのは明らかにおかしい。

結局は飛び級というのはたくさんある選択肢の一つでしかない。別に、それを選んだからと言って優秀であるとか、それを選ばなかったからと言って優秀でないなんて議論はどだい間違っているのだ。

私がここで、すごく強く言いたいのは、これらの俗説、情報の根底にはぬぐいされない「学歴至上」の考えが根強いということだ。

私は高校時代、飛び級受験をすると先生に言うと強く反対された。理由は「私を東大に行かせて、学校の進学実績にしたいから」

私の通っていた学校は「自称」進学校で、とにかく東大、京大に行かせることを目標に授業をしている先生が主だった。

実際、受験に受かったとき、先生に報告しに行くと「他の生徒はこれから受験だから刺激与えないように、同級生には言うなよ」と言われた。大学一年の時に、同級生の高3の文化祭に行くと、僕のことをあまり知らない人からは「最近、不登校みたいだけど大丈夫?」なんて心配されたりもした。

大学に入ってからは、千葉大は飛び級をしているだけで、それ以外は普通の地方国公立なので、東大生としゃべると、「たかだか千葉大」みたいな圧を受けることもあった。

正直にいうと、「お前、東大入っても、一浪だろ?こっちは飛び級してんだよ?」とう俺様感情(学歴厨的発言)をもったことは否定できない。

けれども、明らかに飛び級に対する見方が、日本人のなかで確立されていないゆえに腫れ物扱いされるのだ。

何度も言うように、これらは学歴厨の賜物だと思ってる。結局、東大に入れとか、某漫画でさんざん言いまくったり、東大王なんていうまるで東大が頂点であるかのような番組もある。

あらゆる情報が高学歴を頂点とする思想が正しいかのように思想操作されているとしか私には思えないのだ。

「そういうお前も東大だろ?」とか言われそうだが、あくまでやりたい研究があったから東大に行って、指導教員に教えを請うているに過ぎない。

だからこそ、「選択」という言葉をさきほど強調したのだ。

ただ、実情を言うと、飛び級進学する生徒の多くは不登校やいじめを経験している。かくいう僕もダブル経験者だ。これまで「腫れ物」とされていた人々が飛び級を選ぶ傾向にあるだろう。

けれども、飛び級というのは彼ら、彼女らにとって一種、「救済装置」になっていると思うのだ。僕の後輩も、うつ病になっちゃった子や、精神科に通っている子もたくさんいた。でも、飛び級のコミニティーがあるだけでも、そこで話が生まれるし、お互いに助け合える空間が生まれたように思う。

全ては、どんなに後悔しようが、どんなに納得しようが、自分に合う選択をその時々でしたに過ぎない。

AbemaTVで飛び級特集があり、そこでも選択の重要性を主張しているコメンテーターがいた。その人の言うとおりである。けれど、なぜそうした選択がされず、未だに知らない人がいて、まるで宇宙人のように飛び級生を扱うひとがいるのか、こんなに優秀なのに、みたいな人が出るのか。

非常に単純。未だに、学歴至上主義であり、それは東大を中心とする至上主義だからである。さんざんメディアで東大を一番にするような主張を繰り広げた結果、東大を中心とする国立大学至上主義、学歴至上主義によって世の中に存在するあらゆる選択肢が狭められ、多様性、多様性とほざかれる時代でまるで、一つしか選択肢がないかのように押し付けられる。

昨今のフィクションでは、自分の選択がなによりも重視される。自分で決めることの大切さを強く押し出す。けれど、そんなの現実を前にすれば泡沫に等しい。

私は飛び級という経験を通して、「選択の軽薄化」を痛感した。人生は常に選択に迫られ、自分に合う道を選ばなくてはならない。けれども、現実に存在する画一的な価値観が飛び級を筆頭とする変わった選択肢を排除する傾向にあるのだ。

そういえば、東大で異才発掘プロジェクトというものがあったが、わずか数年で失敗した。この要因は、プロジェクトに受かることが目的とする親によって本来、それによる救済を必要としない子の受験が圧倒的に増えたことにある。結局、学歴至上である。どうしても、学校教育では学歴至上という言葉と切っても切り離せない現状がある。

けれども、学校という小さな社会では勉強以外の様々なことを経験する。社会に出る前の人間関係の練習の場では、仲の良い友達としゃべったりなんて、和気あいあいで終わるわけでもなく、人によっては馴染めず、いじめられ、不登校になり、家庭の問題を抱える子も少なくない。

今はこれらに対して政府や自治体が対応する場が整って行きている。まだ、彼ら、彼女らへの救いの手が伸びている。けれども、脱落者はたくさんいるのだ。

あえて、ネガティブな言葉遣いをしたいが、私は負け組のように言いたいわけではない。それでも、現状、たしかに「脱落者」と言われる現状があるのだ。

再三、大事なことなので繰り返したいが、結局、飛び級のようなシステムは弱者救済のシステムという普通の人が選ばないシステム、という認識があまりに強い。だからこそ、還元すれば選択の一つにしか過ぎないのに、差別発言が日常になり、そこで居場所を見つけても、それは結局居場所をみつけることにならなかった人が出てくるのだ。

単に事実だけを言うなら、無事に4年経って卒業できない人は一定数いる。

どこにいっても一つの価値観にしばられることで結局、救いがない。社会でありふれているが、「飛び級」という視点を通しても、決して「優秀」という簡単な言葉で片付かず、社会にありふれた問題が表出し、選択を奪っていくのだ。

長々とかいたが、僕は飛び級を選択したいと思う人には強く勧めたい。
結局、全ては「選択」なのだ。

君の思うままに、君がやりたいのように、君が楽しく暮らせるように、そんな選択が「飛び級」を通して叶えられるのなら。

決して、社会の価値観に縛られず、自由が享受できるようになればそれ以上に僕として嬉しいことはない。







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