イチローさんが一線を退く

最強のアスリートが一線を退く。

言葉にならない感情だ。

イチローさんに対して、「凄い大リーガー」という印象を持っているひとがいる。僕にはそれが多少違和感がある。

たぶん僕の地元、神戸の選手だったからだ。

もちろん今だって大リーガーなのだけど、オリックス時代の印象が強烈なのだ。

今日は以前書いた記事を引っ張りだしてきたい。

メジャーリーグだけで3000本もの安打を記録したイチロー。日米通算で数えると地球生誕以来、最も多くのヒットを打った野球選手だ。

保持記録や伝説は数え切れない。

年間262本安打の世界記録、10年連続200安打。MVPと新人王の同時受賞。

偉大な記録を支えたのはその独特の考え方にある。すべてがクールでユニークなのだ。そのスピリッツに憧れ、強くインスパイアされてきた男は僕だけではないだろう。

西暦1994年。今から25年前になる。そんな世紀末の日本にイチローさんは現れた。

史上初のシーズン200安打、69試合連続出塁、パリーグ最高打率や諸々のタイトルを記録し、日本中にイチロー旋風を巻き起こした。

近年「最多安打」という単語をよく耳にするようになったが、このタイトルが作られたのは、実はこの1994年からだ。

しかし当時、僕は「イチロー」を知らなかった。神戸の片すみであまり利口でないガキをやっていた僕に野球などは関係なかった。

人生初のランドセルを背負って、小学校に入学したばかりだったのだから、スポーツに対するアンテナが無かったのだろう。

イチローブームは子ども全員にまでは浸透していなかったし、野球人気もイマイチだったのかもしれない。

そして世紀末はジリジリと加速し、1995年がやってきた。

年が明けてから17日経ったその日、僕の住んでいた町は壊滅的な地震に見舞われた。人生初の三学期は来たと思ったら、すぐに休校となるハメになった。

6歳だった僕は震災からしばらく経っても、何が起きているかわからなかった。それもそうだ。生まれて6年なのだ。「正常な社会」を目の当たりにした期間も短い。あの頃の僕には、震災がどれぐらい異常なことなのか判別ができなかった。

慌てる大人たち、ヒビだらけになったコンクリート、休校と短縮授業をくりかえす学校。社会のいろいろなものが正常に回っていなかった。

みんなが困っていることはわかった。だけど僕にはどこからどこまでが、震災の影響によるものなのかもわからなかった。

3月には都内でカルト宗教団体によるテロが発生した。
法治国家の中枢都市に神経ガスが散布されるという、世界的に見ても稀な事件だった。

だけど僕にはこの事件も震災の一連に見えた。

恥ずかしながら僕にとってはWindoms95の発売もインターネットの始まりも、「新世紀エヴァンゲリオン」も震災の一連だったのだ。

僕が実際のイチローさんと出会ったのは、そんな1995年だった。

春になりマスコミの興味はオウム一辺倒になり、震災報道は落ち着きつつあった。

しかし神戸には「復興」という大仕事が残っていた。

「元通りになるのに10年はかかる」と父親がよく言っていた。まだ6年しか生きていない僕にとって、「10年」という月日は天文学的な響きを含んでいたことをよく覚えている。

震災のせいで、家族を失った人、家を失った人、財産を失った人、何かを失くしてしまった人がたくさんいた。神戸の人々はずいぶんと疲れていたように見えた。隣りに建てられた仮設住宅では多くのひとが首を吊った。

そして地元神戸の球団、オリックスブルーウェーブはこの年に「がんばろうKOBE」という合い言葉を掲げてシーズンを迎えた。

このフレーズは小学校にも浸透し、町のあらゆるところで見かけることになった。

不謹慎だがお祭りのような感覚があった。「なんとかみんなで頑張ろう」という熱い空気が、ヒビ割れた町に染み込んでいた。

神戸中で「がんばろうKOBE」が掲げられた。不思議と「一度は球場に行こう」という雰囲気になっていた。

そしてイチローさんはこの祭りの象徴だったのだ。

震災以降は名前を知らずに神戸で暮らす方が難しかった。そして、その名は全国に広まっていった。「イチロー効果」はこの年の流行語大賞になった。

何も知らない6歳の僕もこの年、始めてオリックスブルーウェーブの本拠地であるグリーンスタジアムへ行くことになる。住んでいた駅から球場のある総合運動公園駅までは4駅だった。

野球場に足を踏み入れたのは始めてだった。すべてが大きく、緑の天然芝は光るように美しかった。

今思えば、将来メジャーリーグで活躍する田口選手、長谷川選手、そしてイチローさんが同じ空間で野球をしていたあの空間は贅沢だった。

試合前の練習の段階で背面キャッチをイチローさんは連発していた。そのファンサービスのたびに、ライトスタンドから歓声が沸いた。

イチローさんの名前を聞いたことはあるぐらいだった。そんな野球を知らない僕でも、諸動作の美しさが分かった。不世出のスターの持つ圧倒的な魅力に一撃で心を打たれた。

試合が始まるとイチローさんの実力はより顕著になった。大勢の選手がプレイする中、一人だけが別の次元にいた。すべてが他の選手と違った。当時の様子は「無双」という言葉でも伝えきれないほどだ。

それから何度も球場に足を運んでいた。

イチローさんはよくデッドボールを喰らっていた。

怪我をしないイメージがあるが、1995年はパリーグ一位の18個ものデッドボールを身体に浴びていた。

僕が見ただけでも2、3回ぶつけられていた。速くて硬いボールは背中や膝元などよけづらい場所に放られた。

相手チームの強烈な警戒態勢と執拗なインサイド攻めが、デッドボールの数を生んだのだそうだ。

子どもの僕から見ていてもどこに投げても打たれることはわかっていた。

配球の工夫は必要だったのだろう。ダーティーなやり方も勝つためには必要だったのかもしれない。

だが、6歳の僕は納得できなかった。

イチローさんがボールをぶつけられるたびに、悔しくて泣いた。「まともに勝負すれば負けないはずなのに卑怯だ」と親に泣きついた。

しかし泣く僕と対照的に、当の本人のイチローさんはぶつけられても決して怒らなかった。ピッチャーを睨みもせず、黙々と一塁へ歩いていた。

子どもの僕には何でイチローさんが怒らないのか不思議だった。

本人が泣いても怒ってもいないので、僕らファンの怒りもしぼむように収まってしまうところがあった。

そしてシーズンが終わってみるとイチローさんは執拗なインサイド攻めにも屈しず、打者タイトルを5冠獲得した(ホームランが後3本出れば前人未到の打者タイトル独占だった)。

オールスターでは史上最高得票を記録し、オリックスブルーウェーブはリーグ優勝を手にした。

優勝決定の瞬間、僕は一塁側のスタンドにいた。僕だけではなくみんなが泣いていた。

デッドボールを18個も浴びながらヒットを重ねまくるイチローさんの姿は、蘇ろうとする神戸の町と重なって見えた。まさに「復興を目指す神戸のシンボル」そのものだった。

それから6年間、イチローさんは日本球界を牛耳り続けた。

首位打者は固定席になってしまった超人がどんなことをしても、誰も驚かなくなっていた。空振りすら珍しかったので、三振しただけでニュースになったりしていた。

そして2001年、イチローさんは初の日本人野手としてメジャーリーグに挑戦する。多くの大人たちが「たぶん通用しない」と言っていた。

親も先生も少年野球の監督も「2割8分ぐらい打てれば十分だ」と評論家のように述べていた。僕はそのたび「とてつもないことをやると思う」とムキになって言い返した。

そして2001年のイチローさんは驚異的なペースでヒットを重ね、新人王、MVP、最多安打、首位打者、盗塁王、シルバースラッガー賞、ゴールドグラブ賞を受賞した。

自分のことのように嬉しかった。

「神戸という街を抜きにして、僕という選手を語ることはできない」と語るイチローさんの映像を見たことがあるが、僕はあの1995年のことを思い出していた。

メジャーリーグ3000本安打達成の時の、「僕が何かをすることで僕以外の人たちが喜んでくれることが、今の僕にとって何より大事なことだ」というコメントも、1995年を思い出さずにはいられなかった。

何度もデッドボールを喰らいながらヒットを重ねていたイチローさんの姿が今も脳裏に焼き付いている。

そしてとてつもない位置までそのヒットの数は積み上った。プロ野球リーグ通算4000本以上にもなったその世界記録の中には僕が初めて見た、1995年のあのヒットも含まれている。

僕の歌はどこから生えているのだろうか。おそらく根っこの部分。最も深い根源的な箇所は1995年から生えている。

そして、その中心にいてくれたのは、紛れもなくイチローさんだった。




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