資本家とサラリーマンとバンドマン

「人間は皆同じ。平等」だと教わってきた。小学校からそう習ってきたのだ。

しかし僕が見てきた限りでは、世の中は明らかに真逆にできている。人間は「皆違って、極めて不平等」にしか見えない。

基本的人権の精神を説明しているならば、全然良い。

しかし、そうであるならば、その根底に「人間は同じではない」という事実を据えないとわけわからん話になってくる。

なぜなら人間がマジで平等にできているならば、そもそも『基本的人権』など要らないからだ。

ほじくり返すと、「人間は生まれながらにして、あまりにも不平等だから、せめて最低限のチャンスを『公平』に近づけるようにしてやるぜ」と、近現代の人類が基本的人権の概念を用いてきたことが分かる。

そして、それに準じた社会システムを、安定のための知恵として構築してきたのだ。

当たり前だが、みんな違って生まれてきている。

外見的違いだけでも、背の高さ、デブになりにくさ、顔の造りに肌の色や髪質など違いがある。内的には運動神経や脳のつくり、声域、空間把握能力、知力。

違いは如実にある。

これらの有利不利を携えて、僕たちは資本主義の中で生きていかないとならない。

「資本主義はクソだ!」というひともいるが、今のところはこの社会原理が人生に降り注ぐのは仕方ないことだ。

しかしミスりまくっても「最低限のチャンス」が残されることを考えると、捨てたものでもないシステムだ。資本主義のおかげで世界の貧困や不幸は凄まじい勢いで減っている。間違いなく地球はどんどん幸福になっている。

日本であれば、法律はワークするし、選挙権や生活保護の受給権利など、いかなる場合にも最低限保たれている。

そのセーフティネットが完備されている上で、競争がある。勝てば成果が返ってくるし、敗ければ「最低限」の場所までいくのが資本主義だ。

資本主義社会においては、大きく分けると二種類の人間しかいない。

自分の二十四時間を使って稼ぐひとと、他人の 二十四時間を使って稼ぐひとだ。前者を「サラリーマン」と呼び、後者を「資本家」と呼ぶ。

資本主義の本質とは、文字通り、後者の資本家のために作られた社会だ。ロスチャイルドらが残したナポレオン時代からの遺産である。

わかりやすく言うと、資本主義社会とは「サラリーマンを働かせて、資本家が儲ける構造」になっている。サラリーマンとして人生を過ごしたひとと、資本家として人生を過ごしたひとの、生涯年収の平均値を比較すると、極端にケタ数が異なることを見れば明らかだ。

ではその二種類の人間に、それほどの能力の差があるのだろうか。と考えると、これもまた違うように思う。

サラリーマンでいえば、僕は電通の小僧や三菱グループのジジイ、レーベルのお偉いさんなど、様々な高学歴、いわゆるエリートサラリーマンたちに会ってきた。資本家で言えば上場企業の経営者、投資家など何人かとも会ってきた。

彼らはもちろんスマートだった。

しかし、僕が関わってきたバンドマンらと、能力が違うようには思わなかった。つまり立場によって、爆裂に能力が違うわけでもないのだ。フリーターだろうが、資本家だろうが、そこまでの差は無い。では何が違うのか。

単純に「知っている世界」の限界値が違うだけなのだ。人間は自分の知らない世界を、認識することができない。見えていなければあっても無いのと同じなのだ。

親や先生が真面目なサラリーマンであって、彼らしか師がいなければ、その先を意識すらできないのだ。

親が働いて生み出した多額の価値を、その先の資本家が山分けしていることを、僕も意識できなかった。

意識さえすればそちら側に行くこともできるのに、観点が無ければその選択肢すら消失してしまうのは怖い話である。

ある意味、資本主義とは「無知であること、愚かであることに罰金を科す社会」とも言える。

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