十三歳から飲酒しているけども

愚痴をこぼしたい日がある。

毎日愚痴のような記事をここに投稿しているくせにまだまだ吐き足りないとは、自分の業の深さに辟易する。

まぁしかし人間、愚痴と隣り合わせである。それすなわち愚痴の吐けない日々とも一心同体である。
そして吐き出せる愚痴ばかりでもない。吐けない愚痴が増えるのも大人になるということだろうか。つまらないことを言った。

しかし、それでも人生が続くのは、同じ角度の仲間が少数いるからだとも思う。

それにしても一つでも多く極めし極めし、と生きているのだから、足りないものが減っているはずなのである。

なのになかなか幸福や充足は心に行き渡らない。果たして満ち足りた気持ちというのは、どこにあるのだろうか。
やはり天竺のような成分で出来ているのだろうか。有って無いようなものなのか。もはや三蔵法師になった気分でしかない。

しかしこんな感情は誰しもある。心が雨漏りしない人間などいない。落ち込む、というわけでもないが、やりきれないでそのまま進むしかないことばかりだ。

では、どうして人間はネガティブになり、淀み腐るのだろうか。

幸せをもたらすセロトニンが一定量分泌されないと、心は制御しにくくなる。もちろんそれはそうだが、そもそもセルフモチベートはもっと簡易化しないものだろうか。自分の心のケアを外注したいと願う今日この頃である。

そしてこのままある一定の条件になると、僕は躁病になってしまう傾向がある。これはもう長いあいだ「自分」という乗り物を操縦しているので、把握しているバグだ。

バグは嫌だが、発生条件を把握しておけば恐れることはない。煩わしさはあるが、恐怖は失せる。

たとえば僕の車はギアをDに入れてエンジンを切ると、何故かPに入れ直しても、ギアが噛まなくなる。間違ってそうしてしまったら、サイドブレーキをかけないとゴロゴロと何処かに行ってしまう。

最初は驚いたが、法則的なことが分かったら怖くも何ともない。もう一度エンジンを切り直せばいいだけなのだ。

同じように、ある種のストレスが続くと僕は操の気が強くなる。これはもう僕に幾度となく訪れたバグなのだ。

とにかく喋りっぱなしで、寝ようとする相手にも喋り続けたことは、一度や二度ではない。普段無口なくせに面倒この上無い。

相手が寝ようとすると「その橋は渡らせんぞ」などと謎なことを言っていたこともあるらしい。さらに本人には細かい記憶が無いのだからタチが悪い。

操の特徴だが、アドレナリンやらドーパミンが異常分泌されるのだ。脳が煮えたぎって万能感に満たされる。もう、なんでもできる気になってくる。するといろんな約束や仕事を、バコバコ取り付けてしまうのだ。そして台風がやむと、反動で何もやる気がなくなってしまう。

はたまた迷惑な病気だが、鬱病と比べるとかわいいものだ。アレは自殺願望が膨れ上がって、そのまま本当に死んでしまうケースも少なくない。

何年か前に死にかけたことがある。全身から汗が吹き出して、全身の細胞が拒否していたことをよく覚えている。

僕の場合、これに加えてアル中が脳にツタのように絡まっている。難儀なものである。これが日常生活にずいぶんと支障を来たす。

だから怖くなって、時折プツッと酒をやめるのだ。それでも断酒をしていると、飲みたくなる瞬間というのはやってくる。

そのときには、こう考える。

「よし、飲もう。ただし。今日じゃなくて明日飲もう」

こうやって日々をつむいでいく。これはヘロイン中毒の治し方のメソッドである。

それでもまた戻り、また辞め、また飲み、また辞めと繰り返している。ある一定のエリアを越えると、いくら辞めててもまた戻ってしまうのだ。コントロール不能という時点では、今もまだ病の中にいるのだろう。

あまり若い時期から飲酒に手を付けると、生涯を通して中毒と付き合うリスクが上がるそうだ。

十三歳から飲んでいるから仕方ないのかもしれない。

しかし、デロリアンでタイムスリップできたとしても、十三歳の僕に会えたとしても、僕はアルコールを取り上げないだろう。

あの永遠にも感じるような退屈な時間、アルコール無しで過ごしていたら、とうの昔に死んでいた自信がある。何かの中毒になってでも、生命が続くのであればそれに勝る価値は無い。






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