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団塊ジュニア世代が見てきた東京メンズファッション30年史⑦

2004

新しいスタイルのメンズ誌が躍進

当時から最大部数を誇っていたメンズノンノを猛追していたのがスマートだった。そこで紹介されていたのは、90年代終わりから盛り上がっていた裏原スタイルで、グラフィック入りのTシャツかスウェットに、サイズアップしたジーンズを腰穿きで合わせ、マウンテンパーカかミリタリージャケットを重ね着するのが定番だった。足元は「ナイキ」のダンクか「アディダス」のスーパースターといったスニーカーか、「レッドウィング」「ダナー」「ティンバーランド」のブーツが人気で、余ったジーンズの裾は足元でクッションさせるのが定番だった。中にはジーンズの裾を地面に踏み付けながら着用する猛者もいた。ファッション業界人の間ではディオール・オムが圧倒的に注目されていたが、この時点で実際に着用していたのは少数派で、多くの若者はこうしたアメカジ系のストリートスタイルに安住していた。
 
一方で、長らく続くストリート誌に飽きたファッションコンシャスな層に支持された雑誌が、2003年から編集者の右近亨がディレクターを務めた『HUgE(ヒュージ)』だった。同誌ではパリのディオール・オムとナンバーナインの快進撃を熱心に紹介した。両ブランドを実際に購入していたほとんどの人が、この雑誌を手にしていたはずである。海外のモード誌に匹敵するような刺激的で洗練されたヴィジュアル、写真を最大限に活かすミニマルなレイアウトで、それまでのメンズファッション誌との違いを明確化した。多くの特集を担当するのはスタイリスト野口強と二村毅で、2人のディレクションによって気鋭のフォトグラファーとヘアメイクを起用。ディオール・オムとナンバーナイン以外にも、パリ・ミラノ・東京で注目すべきブランドも数多く発掘。ファッションストーリーばかりではなく、静物写真だけで構成されたカタログ特集も年に数回あり、ストリートブランドやアウトドアブランドも含めて本物志向の服選びを提案し、うるさ型の業界人も納得のファッション誌として地位を確立していく。
 
ヒュージがハイファッション寄りだったのに対して、音楽、写真、アートといった多角的なサブカルチャー寄りの記事を得意とした雑誌が、『EYESCREAM(アイスクリーム)』だ。トレンドの一歩先を行く感覚で毎号ユニークな特集を展開し、いわゆるメインストリームからは一歩引いた趣味を持つ若者を中心に支持される。創刊当時は金策に相当苦労し、版元もいくつか転々としたが、最終的にスペースシャワーに落ち着く。ヒュージとアイスクリームに共通するのは、これまでの部数至上主義とは異なり、いい意味で同人誌のような感覚があること。現在も創刊時からのポリシーを変えることなく刊行を続け、誌面内容とは別のトピックスで構成したオフィシャルサイトの両軸で展開している。初代編集長の稲田浩によると、(ファッションにも力を入れていたが)最も部数が出るのは「スケボー特集」だったそうだ。
 
また、メンズノンノに対抗するかのように、よりリアルで骨太なアメカジスタイルを掲げ、ストリートジャックの兄弟誌として創刊されたのが『メンズジョーカー』だ。ブランドごとにスタイリングしたポートレート、アイテム別カタログ、ショップ取材、スナップ企画など、おおよその企画は他の雑誌と類似していたが、この頃からスタイリストと掲載ブランドが雑誌ごとに棲み分けるようになり、差別化を図るようになっていく。メンズジョーカーの特徴としては、裏原ブランドや海外ブランドはほとんど取り上げず、セレクトショップのオリジナルや勃興しつつあったドメスティックブランドなど、手が届く価格帯でリアリティのあるスタイリングが強みだった。この頃からトップスは完全にタイト&ショートなコンパクトシルエットが好まれるようになり、ボトムスも次第にスリム化が進んだ。そうして、メンズノンノやポパイとは違うワイルドなアメカジ好きの受け皿となったメンズジョーカーは、地道に部数を伸ばしていった。

Bボーイの心意気を胸に裏原から世界へ

バイカーテイストの「ネイバーフッド」、シンプルで洗練された「ソフ」、ミリタリーを軸にした「ダブルタップス」は、それぞれの得意分野を確立することで安定した人気を誇っていた。ストリート誌はもちろん、メンズノンノでさえもこれらのブランドを積極的に取り上げるようになり、芸能人やモデルたちが着用して誌面に登場するようになる。しかし、裏原ムーブメントをスマートとともに盛り上げたアサヤンが2003年で休刊。この時期から裏原ブランド内での浮き沈みが激しくなり、いくつかのブランドは規模を縮小するか消滅するなどして、全体的な人気にも徐々に下降線を描いていった。
 
そんな裏原ブランドの中で突出した存在が、NIGO率いる「ア ベイシング エイプ」だった。もはや国内では圧倒的な知名度を誇り、服にとどまらずカフェ経営やイベントプロデュースまで手を広げていた。そうした飽和状態からさらにブランドを成長させるための手段として、NIGOは海外へと目を向けた。そこには、ストリートから這い上がり立身出世することを理想とするBボーイとしての矜持もあったに違いない。2003年にはロンドン、2004年にはニューヨークにオンリーショップを立て続けにオープン。
 
ヒップホップアーティストの中でも特にルックスとファッションセンスで高く評価されていたファレル・ウィリアムスへ接近し、「ビリオネア・ボーイズ・クラブ」を立ち上げ、裏原から世界へと進出。Bボーイ界のトレンドセッターとして世界で認められるようになった。その後も、海外の人気アーティストとの交流は続き、NIGOが培ってきた人脈が2022年のKENZOのクリエイティブディレクター就任につながることを考えると、この選択は正しかったと言えよう。ファッションに興味のある男性にとっては説明不要だと思うが、NIGO(2号)というニックネームは藤原ヒロシが1号であることに由来している。

表参道に新たなランドマークが出現

表参道交差点から根津美術館方面に進み、コム・デ・ギャルソン青山店を通過したエリアに「プラダ青山店」が竣工。建築ユニット、ヘルツォーク&ドムーロンによる、湾曲した大きなガラスで囲まれたポストモダンな建築は付近の景観を一変させ、新しい観光名所となった。また、コム・デ・ギャルソン表参道店の通りを挟んだ反対側の地下に、三陽商会が出資したセレクトショップ「ラブレス」がオープン。前述したセリュックスのバイヤーだった吉井がディレクションを手がけ、国内外の高級ブランドや新鋭デザイナーズを取り扱った。限られたショップでしか展開していなかったマスターマインド・ジャパンに加え、当時珍しかったフランスの高級バッグブランドの「ゴヤール」を独占的に販売していたことも、その人気を大きく後押しした。
 
また、海外コレクションの出張取材が多いファッション関係者にとって、特別なショッピングスポットがパリの「コレット」(1997年)だった。ディオール・オムやコム・デ・ギャルソンなどデザイナーズを取り扱いながら、さまざまな新鋭ブランドやデザイナーを次々とフィーチャーし、凝ったディスプレイで紹介していた。コレット別注のエルメスのスカーフなど、同店から生まれたヒットアイテムは数多い。惜しくも2017年に同店はクローズするが、00年代にコレットで取り扱われることはブランドにとってのステイタスであり、ハイファッションにおける人気のバロメーターとなっていた。翌年、私も実際にパリを訪れた際に同店を訪れたが、ショップ空間が予想よりも狭く、ボールペンやバッジなど土産物のような小物がごちゃごちゃとしていて、かなりガッカリした記憶がある。
 
前述した『堕落する高級ブランド』によると、「2004年、高級ブランド市場全体の41%は日本で売り上げられた」と指摘されている。バブル崩壊、9.11という大きな経済危機に見舞われたにも関わらず、IT業界の成長とともにヒルズ族と呼ばれた新しい富裕層の出現もあり、日本におけるラグジュアリーブランドビジネスは意外にも堅調だったし、依然としてアジアにおける最大のファッション消費国だった。90年代初頭にピークを迎えた国内のメンズファッション市場はその後緩やかに下降線を描き、リーマンショックで急落するのだが、その最後の煌めきとも言えるのが00年代半ばだったのだ。

2005

音楽好きからカール皇帝までが熱狂

メンズモード界のトップランナーだったエディは、自身のショーでベック(05SS)、レイザーライト(05AW)、ザ・レイクス(06SS)、エイト・レッグス(06AW)らのミュージシャンを次々と起用。かつてのインタビューで「デヴィッド・ボウイ、ポール・ウェラー、ザ・クラッシュのポール・シムノンから、かなり影響を受けた」とエディ自身が語っていた通り、ファッションは常にユースカルチャーからの引用である。この時期にエディがランウェイに登場させたボーダーカットソー、モヘアセーター、スリムジーンズ、レザーベスト、ストラップブーツといったアイテムは、前述のザ・クラッシュを含め、ジェネレーションXというパンクバンドのメンバーたちが好んでいた着用していたものだったし、身体に吸い付くほどタイトなスーツ、ナロータイ、トレンチコートも、ネオ・モッズの代表格的バンドであるザ・ジャムのポール・ウェラーが着用していたものだった。
 
音楽好きなら誰でもハッとさせられる、こうしたロックアイコンからの直接的な引用は、ヴェルヴェット素材やグリッター素材などを用いたグラムロックもしくはニューロマンティック的なアプローチが加えられ、さらにエッジの効いたスタイルへと展開。ナポレオンジャケットはアダム&・ジ・アンツ、タキシードはザ・ダムドのデイブ・ヴァニアンを元ネタにしたかのような、テーラードとフォーマルの要素をリミックスすることで、ディオールという老舗にふさわしい仕上がりにまとめた。個々のアイテム自体はさして珍しいものではないが、エディの手に掛かると古臭さを感じさせなかったのは、彼なりのサイジングとスタイリングに加え、しっかりとラグジュアリーな要素を散りばめていたからだ。
 
中学生時代からパンクやモッズといったロックファッションに慣れ親しんでいた私にとっては、なぜ過去の遺物となりかけていたパンクやニューウェーブをわざわざ00年代に持ち出すのか不思議に思った。しかし、前述したエディのランウェイに登場した英国の若手ミュージシャンたちがパンクやニューウェーブの要素を盛んに引用していたことを思い出せば納得できる。20年以上前に流行した音楽カルチャーが完全に一周して、当時を原体験として持たない若者にとってそれらは新しい発見であり、絶好のサンプリング材料であったからだ。こうしてエディはファッションと音楽をリアルタイムで結びつける重要なハブ的存在ともなったのだ。そうしてロックミュージシャンの衣装のような服がランウェイを闊歩し、音楽とともに熱狂的なディオール・オム信者を生み出していく。

ロックとダンスミュージックが接近

フレンチ・エレクトロニカが一部のファッションピープルや熱心なインディーロックファンに受け入れられていたのに対し、ホワイト・ストライプスやザ・ストロークスが牽引したガレージロック・リヴァイバルは、ここ日本でも幅広いリスナーに受けチャートの上位に食い込んだ。90年代前半のグランジ、ブリットポップが過ぎ去った後、久しぶりにロックの復権とも言える現象がここ日本にも広がっていった。リバティーンズ、フランツ・フェルディナンド、ザ・キラーズ、アークティック・モンキーズといった新人がこの流れに加わり、ダンスミュージックに押されっぱなしだったロックシーンに活気が戻ってきた。フジロックとサマーソニックという2大フェスが夏の風物詩として定着し始めると、フレンチ・エレクトロニカとガレージロック・リヴァイバルという2つの要素が混じり合いながら、ダンスとロックの間を行ったり来たりするようなリスナーが増えていった。
 
こうした音楽好きたちは、2000年にオープンした渋谷のウームや2002年にオープンした新木場のスタジオコーストで行われていたハウス・テクノ系のイベントにも足を運び、そこには明らかにエディの影響を受けたと思われるファッションに身を包んだ音楽好きをちらほら見かけた。もちろん、彼らの服が実際にディオール・オムかどうかは疑わしいが、同ブランドのヒット作だったジャーマントレーナーというスニーカーはよく目にすることができた。また、ディオール・オムに惚れ込んだのは若者たちだけではなかった。60年代に破産寸前だったシャネルを、モードの最先端に復活させたモードの帝王カール・ラガーフェルドですら、過酷なダイエットを成功させてディオール・オムのスーツに身を包んだ。タイトに仕立てられたジャケットとデニムに、クロムハーツのシルバーアクセサリーを大胆に取り入れたスタイリングは年代や趣向を問わず大きな反響を呼んだ。

恵比寿・代官山を拠点とする新興ブランド

パリではディオール・オム、東京ではナンバーナインが独走を続ける中、恵比寿・代官山エリアを拠点とする独立系ブランドが力を付けてきたのも2000年代中盤の大きなトピックスだ。革ジャンを主軸に男臭い世界観を展開する「バックラッシュ」のデザイナー片山勇と東京スカパラダイスオーケストラの谷中敦を中心とする集団が、恵比寿連合(略してエビレン)という通称で注目されるようになる。クロスガンのモチーフでブレイクした濱中三朗の「ロアー」(2001年)や、元シューズデザイナーでダークな世界観を展開する高原啓の「ロエン」(2001年)、高原と同じくアバハウス出身の丸屋秀之の「シェラック」、金糸や銀糸を使ったデニムで話題を呼んだ小此木達也による「トロワゾ」(2004年)、メンズ誌の第一線で活躍していたスタイリスト北原哲夫による「バックボーン」、ネイティブアメリカンテイストを得意とする小原弘幸の「アユイテ」(2001年)がここに加わる。
 
元ブランキー・ジェット・シティ、元ミッシェル・ガン・エレファントのメンバーや、シアター・ブルック、ディル・アン・グレイ、テン・フィートといった国内の人気ロックミュージシャンが、谷中氏の仲介によってこれらのブランドに触れ、彼らがステージで着用することでファンにも人気が波及していく。そうして恵比寿連合と目されたブランドの人気が地方へ飛び火していった。ロアーの濱中と親交のあった本間正章による「マスターマインド・ジャパン」(1997年)が、セレクトショップのビームスで取り扱われたことをきっかけに、頭ひとつ抜け出したブランドとして広く注目を集めるようになる。ナンバーナインと同様にスカルモチーフを散りばめたパンキッシュなデザイン、贅沢な素材によるメイド・イン・ジャパンによる作り込み、海外ブランドを凌ぐ高額なプライス設定も相まって、今でいうラグジュアリーストリート的なアプローチをいち早く仕掛けていた点が斬新だった。急速に支持者を増やしていたロアーとマスターマインドは、パリのファッションウィーク期間に展示会形式で参加して新たな販路を切り拓いた。
 
ブランドの方向性やファン層に明らかな違いがあったが、業界内では恵比寿連合と括られることもあり、本間は恵比寿連合というカテゴライズを当時から極端に嫌っていた。私自身もマスターマインドは恵比寿連合とは異質なブランドだということを認めるが、ロック、スカル、スタッズといった共通項があったことは否定できない。後の2012年から13年にかけてマスターマインドは、スカルロゴの商標権を巡って数々のブランドへ法的手段をもって警告を行い、同じくスカルをブランドアイコンとしていたロエンを訴え裁判で勝訴する。ちなみに、後に日本に上陸するラルフ・ローレンの「ラグビー」もスカルがブランドロゴだったが、日本での使用が認められなかったのはマスターマインドが商標権を持っていたからだ。

独立系メンズブランドが次々と立ち上がる

一方で恵比寿連合とは異なるテイストの独立系ブランドが、代官山を中心に次々と生まれていた。ソフの清永と同時期にA.P.C.で勤務した後に独立し、レザーとミリタリーを得意とする大野雅雄による「リップヴァンウィンクル」(97年)、渋カジの流れを汲むハードアメカジ的なアプローチの宇佐美剣による「パラノイド」(98年)、イッセイ・ミヤケでキャリアを積んだ熊谷和幸による「アタッチメント」(01年)、ファインアートから転身した岡庭智明による「ザ・ヴィリディアン」(01年)、元ミュージシャンでグラフィックデザイナーの堀川達郎による「ユリウス」(01年)、テキスタイルを製造する会社がデザイナーに岩谷俊和を起用した「ドレスキャンプ」(02年)、テットオムでデザイナーを務めていた森下公則による「キミノリモリシタ」(03年)などがその代表的ブランド。
 
さらに元プロボクサーという異色の経歴を持つ柳川荒士による「ジョン ローレンス サリバン」(03年)や、ロックテイストを得意とする「ラウンジリザード」(98年)を経て独立した有働幸司による「ファクトタム」(04年)、深民尚による「ダイエットブッチャースリムスキン」(02年)、メイド・インジャパンを掲げるデザイナーの石川俊介による「マーカウェア」(03年)などが、この流れに加わり、より幅広く奥行きあるドメスティックブランド=ドメブラ勢が形成されていった。メンズノンノやメンズジョーカーといった雑誌がこうした新興ブランドをフィーチャーするたびに、その名は全国区へ広がっていった。裏原でも恵比連でもない選択肢が広がり、それぞれのブランドが着実にファンを増やしていった。ちなみに、エディ・ファンを公言していたカール・ラガーフェルドは、アタッチメントの服もよく買っていたそうだ。
 
こうした恵比寿・代官山の独立系ブランドの関係者やファンたちは、代官山AIR、西麻布MUSE、表参道Fai、外苑前Le Baronなどのクラブに夜な夜な現れた。音楽好きで目立つことが好きな30代がこうしたブランドを支持し、その中には飲食店経営者やIT系企業で重要なポジションを得ていた者も少なくなかった。私が後に入社することになるファッション誌のSENSEセンス(00年)は、いち早くこの界隈の人脈を掴み、恵比寿連合と括られるブランドを当時から大きく紹介していた。当時のナンバーナインだけでなく、前述した独立系ブランドのほとんどがディオール・オムに影響されており、スリムシルエットとロックテイストを基本にして、ワーク、ミリタリー、バイカー、エスニックなど異なる要素を組み合わせてオリジナリティを加える手法が目立った。個人的にもリースや取材でこうしたブランドやデザイナーに協力してもらうことが多く、展示会で個人オーダーをして愛用していた。

海外で高い評価を得た東京の異端児

大学在学中に独学で靴作りに取り組んでいた三原康裕が、1997年にシューズブランドとして「ミハラヤスヒロ」をスタート。ウェアラインを立ち上げて東京コレクションに参加したのが1999年。翌年にはプーマとのコラボレーションライン、「プーマ・バイ・ミハラヤスヒロ」を発表。今でこそ珍しくないが、当時はスポーツブランドのスニーカーにファッションデザイナーを招聘することは珍しく、デザイナーズブランドと大手スポーツブランドのコラボの嚆矢となった。三原はミラノでコレクションを発表。アッパーを大胆に切り替えたデザインやエッグソールと呼ばれる独特な形状のソールを生み出し、日本国内はもちろん、海外ファッション関係者の間でも「ミハラヤスヒロとは何者なのだ?」と関心が集まっていた。そうした期待に応えるように2005年にミラノでコレクションを発表し、海外メディアでも高い評価を得た。こうして海外での活動を活発化しながら、2007年には発表の舞台をパリに移し、散発的に東京コレクションも挟みながら、コンスタントにコレクションを発表。裏原でも恵比寿・代官山系でもない、独自のポジションを築き上げていく。美大出身らしくコンセプチュアルかつユーモアのあるデザインは、現在まで変わることなく続いている。

モードの一角を担うミニマル派の動向

絶好調のディオール・オムだったが、全く対抗馬がいないという訳ではなかった。1998年から「バレンシアガ」のチーフデザイナーとして活躍していたニコラ・ゲスキエールは、中央にジッパーを配してその左右にスタッズをあしらったバッグをウィメンズで大ヒットさせ、細身でシャープなデザインのメンズも一定の評価を得ていた。個人的にもパリ出張の際に同ブランドの旗艦店でウエスタンシャツを購入して、高い頻度で愛用していた。さらに、トム・フォードからバトンタッチを受けたステファノ・ピラーティによる「イヴ・サンローラン」もメディアで好意的にレビューされていた。ともにケリンググループ傘下のブランドで個性は違うものの、やはりトム・フォード流の美学はしっかりと受け継がれていたし、あくまでもウェアラブルでありリアルクローズだった。
 
洗練されたミニマルデザインで90年代から高い人気を誇っていた「ヘルムート・ラング」だったが、この年自身のブランドから辞任。1999年にプラダグループ傘下のブランドとなってからは勢いが削がれたように感じていたが、ラングの事実上の引退に多くのファンが落胆した。ちなみに私はそのラストコレクションの中からタキシードを購入した。ブランドの継続がアナウンスされたものの、その後ラングの名を表舞台で再び見かけることはなかった。そんなミニマル派の受け皿となったのが「ジル・サンダー」だった。ウィメンズのクリエイティブディレクターを手がけていたラフ・シモンズがメンズも兼任することに。パンクやニューウェーブといったユースカルチャー(具体的にはジョイ・ディヴィジョンとニュー・オーダー)からの影響が強かったラフだったが、ジル・サンダーの意志を汲み取るように洗練されたミニマリズムを踏襲。テーラードの技術を巧みに取り入れたメンズコレクションは高い評価を得て、ブランドとデザイナーの安定した関係は2012年まで続くことになる。

続く

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