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かる読み『源氏物語』 【花散里】【須磨】 不遇の中に人生の転換期がある

どうも、流-ながる-です。『源氏物語』をもう一度しっかり読んでみようとチャレンジしています。今回は【花散里】【須磨】を読み、主人公・源氏失脚の意義について考えてみたいと思います。

読んだのは、岩波文庫 黄15-11『源氏物語』二 になります。花散里と須磨だけ読んだ感想と思って頂ければと思います。専門家でもなく古文を読む力もないので、雰囲気読みですね。

主人公を襲う苦難はお約束だ

いろいろと漫画や小説を読んでいると度々感じることになりますが、主人公には苦難がつきものです。源氏にもいよいよそんな局面がやってまいりました。『源氏物語』以前の古典でも主人公がこういった不遇に直面するのはあったわけで、もうずっとお約束ってことで、今もずっと続いている文化のようなものですね。

そういう前提で読み進めると【須磨】は正直暗めです。耐え忍ぶ回という感じでしょうか。須磨の情景の描写というものもありますし、源氏もただじっとしているわけではないものの、都にいたときよりは活動的ではないですね。悲しむ場面も多いです。

源氏の状況をまとめるとこんな感じでしょうか。

  • 失脚(政治に参加できない)

  • 東宮(藤壺の宮との子、実の子)の立場の危機

  • 朱雀帝(兄)の御代が終わるまで希望が見えない

失脚(政治に参加できない)

読者視点で見れば、物語のエッセンスとして源氏失脚を見ることができますが、源氏本人からすると、未来がわからないので悲観するのも無理ないです。
例によって朧月夜との関係の露見というきっかけはあるものの、失脚に至るまでの詳細はないですし、源氏失脚によって逆に得をした人物がいてもおかしくはないはずなのですが、そのような人物については情報ナシです。
源氏の状況は悲観的に描いたとしても、源氏の状況が好転することを願うにあたって、源氏失脚で得した人々は書く必要がないといった感じなのでしょうか。

この局面でわかったことというと、源氏の立場が不安定になったとしても、源氏のことを大事に思っている人物がいるということなんです。源氏に政治的な力がなくなると自然と離れていく人もいることでしょう。しかし源氏が須磨にいくとなった時にちゃんとついてくる人もいるし、文を書く女性たちいるし、そうして三位中将(葵の上の兄弟)は会いにきてくれるわけです。

文を書いてくれる女性たちについては、なんというか総集編を見ている感じでした。これまでが思い起こされます。

運が傾いたり、勢いがなくなったとしても大事にしてくれる人というのものが、そうしたことが起こることによって鮮明に見えてくるということなんだなと思いました。

東宮(藤壺の宮との子、実の子)の立場の危機

政治の話はあまり最初は語られない『源氏物語』ですが、源氏が政治家である以上は、源氏が年齢を重ねてくるとある程度は出てきますね。東宮については、源氏の実子であり、あの藤壺の宮の子なのでめちゃくちゃキーパーソンです。

そもそも源氏が東宮の後見人となっていることが、弘徽殿の大后の警戒心やイライラを駆り立てているわけですね。彼女は我が子である朱雀帝の御代が邪魔されるということが嫌なんだなと思わせてきます。それだけに源氏が後見をしている東宮の評判が良くなることに敏感になってしまうのかな、と。あくまで想像ですけど。

ここで思ったのは、紫の上の実父である兵部卿ひょうぶきょうの宮について。
源氏が失脚したのに紫の上に便りをよこさないと冷たい印象を持たされがちですが、源氏と距離をとるというのも、東宮の存在を意識するとわからないでもないといった印象に変わります。
兵部卿の宮は藤壺の宮の兄で、東宮の伯父にあたるので、自分までも源氏と同じく弘徽殿こきでんの大后に睨まれたら、東宮の立場がさらに危なくなると考えても仕方ないのかなと思いました。自衛も大きな理由のひとつに違いないですが。

そうして源氏もまた最悪の事態を避けるために「悪いのは自分だけですよ」といった感じで、東宮や藤壺の宮から距離をとったのだなと感じました。

《自分がどうなっても、守るべき人のことは守る》
ちゃんと主人公をしていますね。

朱雀帝(兄)の御代が終わるまで希望が見えない

これ読者視点だと、大体わかってしまうものですから忘れがちです。朱雀帝は源氏の兄でまだまだ若いです。その御代が続く限りは情勢が変わらず、弘徽殿の大后が睨みをきかせているわけですから、どんどんと悲観的になってしまいます。

源氏の出家が実現したらこうなる

ところで源氏は、【葵】あたりで出家願望のようなものを抱く瞬間が出てくることがあります。この須磨への隠棲というものは、ある意味で世の中との関わりを断つ状態に他なりませんから、出家体験のようなものなのではないか、と考えました。

それで出家願望を思う源氏が「いやいやそんなわけには」と考える大きな要因として紫の上の存在があります。子どもの頃から親のいない子をひきとったかのようだと思わせてくる彼女は、源氏の出家を引き止める存在ということになりますが、ここ須磨ではどうかというと、何度か《呼び寄せたい》と思う。つまり《会いたい》と思うわけです。

それまでは紫の上にとって源氏は唯一頼りになる人物として見てきましたが、こうなると源氏にとっても不可欠な存在なのではないか、と思うようになりました。紫の上がいないことが耐えられない源氏、という図が自分の中でここにきて浮かぶようになりました。

花散里はなちるさとはどういう意図で登場したのか

【花散里】の帖が【須磨】の前にあるわけですが、登場が突然で帖自体が短いのに彼女自身の登場時間(場面)もかなり短い。なぜこのタイミングなのかというと、【須磨】に入る前に必要だったというふうに受け取るしかないのかなと思いました。

表面上の受け取り方としては、源氏から離れていく人々、変わらず受け止めてくれる人がいるという話なのでしょう。

ただ、花散里は紫の上と同じく頼みになる後見人がいるわけではなく、姉は桐壺院きりつぼいん女御にょうごであるわけですが、すでに桐壺院は亡くなっていて、時代に取り残された人々でもあります。源氏と同じく、桐壺院が亡くなったことで、頼りない身の上になっていく人々がいることを感じさせる、そんなシナリオに感じました。

そうなるとやはり源氏はこういう人々のためにも都に戻り、復帰しないといけない存在だと思わせてきます。ここからどう源氏が変化して都に戻ってくるのか、ただ悲観して過ごすだけでは主人公としては物足りないと思わせてきますし、次の展開に繋がる場面もあり、楽しみです。

ここまで読んでくださりありがとうございました。

参考文献
岩波文庫 黄15-11『源氏物語』(二)紅葉賀ー明石

続き。苦悩する源氏の兄・朱雀帝について考えてみました。


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