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たからばこ

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#福祉

同じになろうとしなくていい。「ちがい」へのまなざしが、関係の網の目を拡げていく

家にいても育児やら掃除やらやるべきことはたくさんあり、会社では売上に貢献しなければいけない。街を歩いていてもSNSに接続していても、やれ男だ女だ、父親はこうしろ母親はこうあるべき、会社員どうこうフリーランスあれやこれと、どこにいたって誰かが決めた評価基準に合わせることを余儀なくされたり、世間の考える「らしさ」に合わせなくちゃいけなかったり、自分がいたいようにいられる場所って意外と少ないもんだなあと常々思っている。 ぼくには障害もなく、フリーライターという、わりと自由のきく仕

「みんな」を崩すための未整理な「言葉」

■悩みます 本音を言うことは難しいなぁと常々思う。それは「我慢すること」と表裏にあって、「みんな言わないようにしているのに、自分だけ言っちゃったらダメなんじゃないか」とか、「みんなそんなことわかって我慢してるんだから、かえって空気悪くなるんじゃないか」とか思って、なんとなくみんなが思ってそうなことを、自ら規制していくことになる。 僕はいま、フリーランス業と並行して、都内の障害福祉施設(通所と短期入所)に勤めていて、今回の緊急事態宣言をうけて、都の現場におりてきた通達によれ

そうだ金借りにいこう(嫁の誕生日やけど)

今さらですがnote始めました。 注)世に溢れるキラキラしたnoteではなく 嫁の誕生日に金借りに行くゲスい話です。(2020/4/2) どうやらこの国に自粛させて休業補償かける空気はないようだ。 マスク2枚配りますとか言ってる政権を責めても時間の無駄。 カオスな状況下ではベストな選択肢などない。 ベターな選択肢を即決していく方が重要だ。 中途半端な対処療法でダラダラ意味ない時間を使うより 間違ってたら謝れば良い潔いスタンスの方が 結果として変化に強かったりする。 い

同情されるのが嫌で会社を始めているのに僕が彼らの同情を助長しているのではないか?

「異彩を、放て。」をミッションの福祉実験ユニット「ヘラルボニー」の副代表をしている松田文登です。 メディアの取材を受けると「お涙頂戴のストーリーをください。」と言わんばかりの質問が飛ぶときがある。落差のある話が欲しいのかと汲み取り、相手の意向を飲み込む。 次の日の見出しには「障害者の兄の為に障害者アートで〇〇」なんて見出しが掲載される。自分で撒いた種が自分に降りかかる。こんな見出しは不本意だ。 "障害者のために"という打ち出し方自体が僕は根本的に嫌いである。「〇〇の

胸を張って「生きづらい」と叫ぶ権利は、ぼくにあるのでしょうか

「生きづらい」とか「助けて」って言うことは、勇気がいることだなと思います。それは、自分で自分を「弱い」と言ってしまうようなことだと思うから。だから、とてもこわいなって思うんです。 でも、どうして「弱い」と告白することがこわいんだろう、とも思うんです。弱いと、だれかに狙われるから? いや、それとも、「強くなければいけない」「自分の責任は自分で」という誰かのメッセージを自らのうちに内在化させてしまったから?そのある種の「正しさ」や「規範」から逸脱してしまうことを恐れているから

型にはめないでほしいー違う世界の見方をしていると捉える視点を、一人ひとりの心に。

こんばんは、佐々木めばえです!ヘラルボニーでは広報を担当しています。今日は私が考えていることをお伝えさせてもらえたらなと思います。 *** 「障害」という言葉。 私にとっては、この言葉はものすごく身近なものです。 障害という言葉を聞いたとき、どんなイメージが浮かぶでしょうか。 欠陥、欠如。何かできないことがあるから、「劣っている」。 そんなイメージが社会の中には一般的な考えとしてあることも、一つの事実だと思います。この一般的なイメージを、新しいものに昇華させてい