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にがて、と、むきあう先に

どこもかしこも交戦体制でぴりっとしているからいつも選挙の前後はにがてだ。
みんなが言論の重要性を意識し、すこしでも世の中を良くしたいと渇望しているからなのだと思いたいけれど、それにしてもそれにしても今回は異質で、誰もに余裕がなく、言葉が暴力的で見ていられない。

じゃあ見なければいいのかというと、そうでもなくて、しっかり見届け、自分のペースでいいから参加していたいという感覚がずっとあって、政治とのほどよい距離感をつかむことのむずかしさに毎度ながらなやむ。他の人はどんなふうにつきあっているのだろうか、やはりみんなひとりで抱え込んでいるのだろうか。なにがよくて、なにがいけないのかどんどん分からなくなり、知りたいと思えば思うほどに疑心暗鬼になっていく。わたしにとっての政治は孤独だ。

流れるSNSは敵意に満ち、心は削れるばかり。敬愛する人同士が言い争う姿など、なおさら見たいわけもなく、あんなにすてきな文章が書ける人が心からひどい人なわけはないとわかっていながら、情報量のすくないリプライのなかでは、寄り添う気のない突き放した態度に見えた。

例え自分へ向けられた意見が偏った見方であったとしても、態度や言葉を選べず怒りが先にきてしまう人はやはりにがてで、それを横目で見ていちいちがっかりしてしまう自分がかなしい。
じゃあ数多ある剥き出しの無理解に、ひとつひとつ丁寧に対応し、耳を傾けてほしいなどと、わたしはそんな無理を強いているのだろうか。

末端にいる人たちの声を聞き、言葉にすることに人生を費やしてきたあなたがなぜそんな言葉を選んでしまうのだというやるせなさ。それと同時に、あの本を読んだときの感動を、救われたきもちをなかったことにはできない、にがてと遠ざけあきらめることができない自分もいて、だからやっぱり本は読んでいたいのだ。読めるだろうか。

人は冷静さを欠くと正論を通すことに躍起になってしまうし、その過程で誤解したまま攻撃的になって一人歩きした言葉は人を傷つける。傷つけ合う。だから言葉はこわいし、対面でないやりとりのこわさを改めておもう。

人は言葉をつかうようになってどれほどのものを失くしたのだろうか。

言葉の獲得によって人間は、自らを滅ぼすかもしれない道を歩みはじめた。その危険の代償として、他の動物には享受できない、かけがえのない文学の喜びを得たのです。それだけの覚悟で小説は書かなければいけません。

『ゴリラの森、言葉の海』山極寿一・小川洋子

それなのに、けっきょくいつも言葉に救われてしまうのだ。小川洋子さんの言葉をお守りのようにして、できるだけ普段通りの暮らしをつづけよう。

流れる雲をあおいで太陽のまぶしさに目をほそめ、緑を揺らす風に触れ、木陰を歩く夏に集中していたい。だいすきな本や音楽、映画に集中していたい。ちかくにいてくれる人たちを知ることに集中していたい。こんな世の中にむきあうのは、いまの暮らしを守りつづけるためにほかならないだから。

橋本亮二さんの言葉にも救われる。しゃんと立っていたい。失望ばかりしていられないよな。

狂騒と思考停止の社会は苦しさを増し、連なる秋と冬の様相は見えなくなるばかりだ。足元を踏み固めながら軽やかな足取りで、目の前をじっと見ながら遥か先まで視線を向けていたい。その責任がはっきりとある。

『たどり着いた夏』橋本亮二

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