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トンネルの先に光が見えた夜に思うこと


昨日、我が家に朗報が届いた。

ベタすぎる表現だけど、長いトンネルの先に光が見えた。そんな感じ。

光が見えただけであって、そこへはまだ到達はしていない。ずっーと先に見える光の一点。
これまたベタだけど、その光はまさに希望だ。

その兆しを別々に、2人の人に報告した。

どちららにも、同じように伝えた。
返ってきたのは、正反対の言葉だった。

1人は、
「よかったね。きっと大丈夫」

1人は、
「ほんで、それで、大丈夫なん」
「その先、どうなるん」

と、言った。


光が孕む輝かしい未来を喜ぶか。
光に隠れる影を憂うか。

前者は母で、後者は父だ。

母の共感に喜び、父のリスクヘッジに心が萎んだ。


育った実家の環境は、昔ながらの亭主関白を絵に描いたようような、絶対君主の父。それを内助の功で支える母の構図で成り立っていた。

社会の炎の中で、戦う父。
家庭の陽だまりの中で、暮らす母。

父と母が暮らす家庭は一緒だったけど、それぞれが責任を果たすフィールドがまるで違っていた。

抱えてるものが違うと、発言も変わる。それは当然といえば、当然で致し方のないこと。      

両親から正反対の言葉をかけられたその日の夜、ドライヤーで髪を乾かしていたら、鼻先に水の玉がするんと滑った。
玉は連なって、次々落ちていく。


あれれ?
泣いてる? 
あわわわ…この涙は、なんだろう。

悲しいもちがう、悔しいもちがう、嬉しいともまたちがう。

自分の思いや、意思とは、関係のない体のどこかの機関によって、操作され出てきたみたいな涙だった。

操作の出所を突き止めるべく、なんとなく心にひっかかっていた両親の言葉を浮かべてみた。

母は、今この瞬間の良かった1面をただ受けとって喜んだ。

父は、先の幸せが確固たるものであって欲しいと望む思いから憂いた。

正反対の態度と、言葉だったけど、感じたのは、どちらも愛だった。

2人が共通して、娘を一心に案じる思いがそこに確かに存在していた。

なるほど、愛が体を満たすと、涙が出ることがあるんだなー。
自分のことなのに、他人ごとの新発見にみたいだった。 
ふーん…そっか、理由がわかったら、涙はとまった。

2人の愛はいつだって、ノンフィクション。

それが嬉しくもあって、それと同じだけ、不甲斐ない。
次に心に浮かんだのは、2人を幸せにしたいだった。

あぁー、自分が大谷翔平なら。
バカみたいなことが、この歳になってもよぎる。

ぽかんとバカな親孝行の方法を浮かべていたら、現役で床屋を営む80歳のおじいさんが近所の学校に1000万円寄付をしたニュースが目にとまる。

おじいさんの1000万円は有り余る財産ではなくて、どちらかと言うとなけなしの方。

おじいさんの床屋さんは、学校の近くにある。
寄付の理由が、
「いつも店の目の前を通る子どもたちに元気を貰った」から。

だから、子どもたちがずっと元気に学校生活を送れるような手助けがしたいと、コツコツ少しづつ、何年も何年も掛けてためた1000万。

額面以上の価値のある、1000万だ。

とても80歳に見えないほど、若々しくて、可愛らしいくて笑顔が温かくて、髪がフサフサしてた。

そんなにいい志なら、床屋に見合う髪の毛を永遠にそなたに与えよう~神様からのギフトじゃないのか?

若さも、子どもたちを喜ばせたい原動力で働いてきたからじゃないのか?そんなことを想像した。

子どもたちは1000万のお礼に手作りのマフラーを贈った。
色とりどりのマフラーを首に何本もぐるぐる巻きにしたおじいさんは、ナゾの服を着こなす松尾伴内みたいな仕上がりになっていた。

伴内の出立ちのまま、学校を後にし、
外から校庭を優しい眼差しで見つめるおじいさん。
全部が、素敵だった。

大谷翔平じゃないから、大金でのこ即金の親孝行はできないけど…
床屋のおじいさんみたいに受けったものを返すことを糧に生きる人ってかっこいい。

そんなやりとりの循環の中で生きていたら心地いいだろうなー。
誰かを、両親を家族を、関わる人たちを幸せにしたいを原動力にして生きていたい。

あー、でも…子ども達は、おじいさんを元気にしたいとは微塵も思っていなかった。ただ、元気よく毎朝お店の前を通っていただけ。それもまたなんかいいなーと思った。

与えるつもりのないものが、誰かの糧になることがあるのだ。
元気な姿を受け取って、返したくなる人もいるのだ。

人が人を思う愛がそこら中に転がっている。
足元に転がる愛なんて知らぬ間にノールック蹴飛ばしてきちゃった気がする。

わたしが床屋のおじいさんなら、毎朝目に飛び込んでくる子どもたちの元気な姿をみて「ホホホ!かっわいい!」で思考は終了していそうだ…。

そこから何か子どもにギフトを〜の発想は…出る気がせん。しかも1000万とか??ある?
せいぜいアメとか、みかんとか、お菓子をあげるぐらいの気がする。

こんな調子だから、大谷翔平みたいにはなれないし、心優しきおじいさんにもなれない。

それに本当は知ってる。

父と母が望むのは、大谷翔平級の親孝行ではなく、
ただ、私の元気と幸せだ。

だって、我が子にそのまま同じことを思うから。

大谷翔平みたいなにならなくても子どもが、幸せに元気に自分を生きてくれたらそれが1番嬉しい。

この歳になっても、親はいつまでも親で、私は2人を前にするとやっぱり娘だ。

主人に対して、やるせない無い思いが湧いて、心がグサングサンになったとしても、その主人だって、主人の親からみたら、やっぱり愛する息子であつて…。

みんなが誰かの愛するなにかで、みんな誰かの元気の源なんだ。

髪の毛が完全に乾くころには、自分の囚われた理想像を追い続ける生き方はもうここらで手放そう…。そんなもの取るに足りない自己満だ。

今日、誰か一人でも、幸せにできるチャンスがある。

それは言葉でも、表情でも、物理的なものでも、
見えない心の運びでも、
ただ、元気にふるまう姿でも。

「トンネルを抜けると、そこは愛であった。」(川端康成…?!)


光にたどり着いたとき、そう言い切れる自分でありたい。

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