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なにがあっても変わらず好きの【なに】は、なにがなのかって話

わたしの考えた【なに】は、

コレ

【なに】=【まさかの予想しないできごとが起こったとしても】

変わらず好きか?愛せるのか?

変わらぬ愛とか、誰かを永遠に好きでいつづけるは素敵だ。

チャーミーグリーン(古い?)は永遠の憧れだし、人を愛して、人から愛されたい。

ドライ認識を自分に下しているわたしでも思う。

永遠と言えば、結婚するときに誓いがちなあれ!

「病めるときも、健やかなるときも、この愛を永遠に誓いますか」

病めるときもの病めるは、どこまで病めるかも重要ではないか?

一言で病めると申しても…その程度にかなりの差がある。

完治が見込める病。
一過性の流行り病。
不治の病。
心の病。

配偶者が予期せぬ病に侵されたとき、神に誓った変わらぬ愛とやらを破ることなく、永遠にもちつづけれるだろうか。

何かの脳の病気で、ある日、自分を忘れさられてしまったとする。

さらに人格がかわり、まるで別人になってしまったら?

ここが重要で、完全に別の誰かにかわりきるわけでもない。
時々はふと、かつて自分の愛したその人の人格が戻ってきたりする。

別人格が暴力をふるうぐらい荒んだ人だったら?
色情ぐるいして、不倫をしたら?

それがとある一つの病のせいだったとしたら…。
それが病めるときもの病めるだった場合
さて、どこまで健やかに愛せる?

病気でなくてもでは、じゃあ犯罪は?
殺人では?

それが快楽的なものか、容疑者Xの献身ばりに誰かを救うために犠牲を払ったのであればまた違う?

なにがあっても、どこまでも変わずその人を好きでいれるのか?
人はどこまで変わらず愛しつづけることができるのか?

自分の理想像がいつだって邪魔をしてくる。

こうしてくれてるから
こうであってくれるから

変わらず好きでいれるのでは?

ものすごくひどい言い方だけど

変わらず好きでいれるのは、許せる範囲の変わらずだからじゃないのか?

それは条件付きの好きにはならいのか?

家族のこうでしょ? の構図が崩れたとき
自分の疑いようのなかった当たり前が当たりまでなくなったとき

与えらるものが一切なくなったとき
与える喜びが消えたとき

変わらず愛せるのか?

こういう自分でいないと愛しては貰えない
それも悲しい。

そういう相手でいてくれないと愛せないも
それも寂しい。


【なに】が起こらないから好きでいれるのか?

努力で、【なに】が起こらないように相手を守るのが愛なんだけど。

【なに】が起こってしまったとき、自分の好きや愛の深さを試されてきた。

主人といると自分がとてつもなく損得で生きているようで、
打算の愛を演じているようで、
ときどきウソツキな自分がいるみたいな気がする。

自分はかわってしまったのだろうか。

まあ、変わらぬ愛を死守したとて…この世は所詮、あぁ…諸行無常。

愛だけに留まらず変わらないものなどあるのだうか…?

生きるは良くも悪くも変化しつづけるものじゃないのか。

うつし鏡みたいな日常でも、昨日と今日は似て非なるもの。

同じと、同じようは、全然違う。

変わりゆく関係性の中で、それでも留まることを決意させる境目は?

自分の超えてはいけない愛の境界線は…さて、どこにひかれているか?

十数年前の出来事になるのだけど、主人と私の共通の知り合いが逮捕された。

逮捕された彼は同級生で、既婚者でまだ子供のいない新婚だった。
一番ギョッとする、強制わいせつ罪

夕方のニュースでも報道され、地元ではちょっとした騒ぎになった。

まさかあの人が…。なんで?
新婚なのに…。
きついな…。
離婚するんじゃない…?。
と、噂話や憶測が飛びかった。

それから10年彼らは離婚していないと風の噂で聞いた。

数年前、友人の結婚式で再会をした。
特に誰もふれることもなく、挨拶程度は交した。
「あっ来てたんやー」と思ったけど、それだけ。

彼も特に何かしでかした過去を持ってる風でもなく、彼のままだった。

まっそれが普通か…。
傍からみたら、みんな普通。

過去にどんなに過ちがあろうとも、現在進行形で悩みを抱えていても。
生きては行けない悲しみを経験しても、その最中にいても。
生死をさ迷うほどの大病の経験があっても。

人はそれぞれの人間活動を命ある限り続けていくしかない。
泣いても、笑っても、辛くても、楽しくても。

生きて行くしかない。普通に見えるような顔をして。

取り乱したり、泣いたり、騒いだりしてもそれが過ぎ去れば、心の葛藤は残っていようとも、仕事中にずっと泣いてる訳にはいかない。
家族の前でずっと嘆いて訳にはいかない。

色んな感情を心に持ちながら、普通に過ごすしかないのだ。

結婚式に呼ばれたら友人としてそこに普通に佇み、招いた友人もまた普通に友人として接する。

そう、普通に。

なぜか昨晩、ひょんな事から主人と彼の話になった。

主人が彼の奥さんすごいな…。
「僕が奥さんなら離婚してると思う。」

主人曰く、
犯罪の種類が自分的には無理だそうだ。

私は……
「しないと思う。」
犯罪を容認するわけでは断じてない。

死ぬほど辛くて、悲しくて、無理は無理だけど
「それは私の限界ではないわー」と言うと、

主人が
「わたしに優しいなー…。」

違う。
違うのだ。
優しさじゃなくて、限界じゃないだけ。

心はきっと鬼のようになり狂うと思う。
ただ、離婚の限界値ではないだけ。

夫に、何度も裏切らて何度も不倫されている友達がいる。
でも、別れないことを選択した。

「バカと思うやろ?」

「でも、実際自分の身に起こったら別れられないものがあんねん」
と、彼女は言う。
全然バカなんかじゃない。


彼女の離婚の限界はそこではないのだ。

限界を超えて、人格が崩壊してまで婚姻を続けることがいいとは思わない。
その人自身の限界がくるまで、人はそこに留まれるのだ。

私も然り。

主人が仮に犯罪を犯したとしても私は別れない。死ぬほど辛く悲しいけど。(常習犯とかになると話は別)

私の限界は、そこではない。

だけど、17年の結婚生活でもう限界かもしれないの危機はあった。

精神が崩壊して、自分が自分でなくなる日々に恐怖を感じて、このままだとダメになる。
自分が怖くなった。

限界の境界線が徒競走のゴールテープなら、あと半身体を傾けたらそのテープを切ってしまう所だった。
すんでのところで重心を後ろにしただけ。

人は何を許して、何に幻滅するかなんて
分からない。

限界の境界線は人によって違うのだ。

分からないから大切にしなくてはいけない。守りたい人の境界線が、自分と同じ所に引かれているなんて思ってはいけない。
好きだった過去の気持ちだけではこの先も一緒には生きれない。


それでも何があっても、起こっても、わたしはそばにいるのを辞めなかった。

毎日、愛していたからじゃない。

じゃあ、なぜ?

彼に日々、一喜一憂し感情を揺り動かされる。
過去には憎しみめいた気持ちが心を通過したときもあった。

だけど、こんな言葉がある

愛の反対は憎しみではなく、無関心

マザーテレサ

そういう意味では、1ミリも主人に無関心ではいれなかった。

100週連続! ぶっちぎり関心第1位をかっさらっている。

ならば、それならば、超愛してるじゃん。

これを愛と呼ばずして、なにと呼ぶのか?

病める時も健やかなる時も一緒にいるじゃないか。

冒頭にあげた

【なに】=【まさかの予想しないできごとが起こったとしても】

相手を受け止める。

それが、愛!!


愛にお試され続けられる日はまだこの先も長い。



クソーー
愛しいぞ!






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