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【感想文】賭博者/ドストエフスキー

『愛しのチャンス様』

学生時分、私はパチスロ中毒者であった。
特に「猛獣王」という台を無我夢中で打ち続けた。

この台はたった一発当てるだけで万枚(=20万円分に相当)という可能性を秘めており、勝つときは20万〜30万は勝つのだが、ボーナス当選率が異常に低いので負けるときは凄まじく負ける。その為、皆、負けた。私に至っては28万負けた。これは通算して28万負けたのではなく、たった15時間で28万円を失った事を意味する。猛獣王とはそういう台なのである。
猛獣王が流行っていた2000年代当時、パチスロは熱狂的な盛り上がりを見せていた。というより皆総じて狂っていた。液晶パネルを肘で破壊してそのまま立ち去っていった年配の男。天井ボーナスを目前にして資金が底を尽きその場に泣き崩れた水商売風の女。千円投入口をこじ開けて警察沙汰になった外国人。いずれも忘れ得ぬ凄惨たる有様であった。

この様になぜ人は博打に狂うのか。
その心境は本書『賭博者』に詳しい。特に第10章〜13章におけるアントニーダ・ワシリーエヴナは顕著な例だといえる。以下に示すのは、彼女が悉く負け続けた直後、アレクセイに言い放った台詞である。

<<これというのもお前さんだよ!みんな、お前さんのせいよ!』—中略—『お祖母さん、僕は本筋を話したまでですよ、どうしてすべてのチャンスに対して責任を負えますか?』『チャンスがきいて呆れるよ!』彼女はすごい剣幕で囁いた。>>新潮文庫,P.188

上記における <<チャンスがきいて呆れる>> とは、己の過失は棚に上げて「チャンス様」なるものに命運を託している事を意味している。つまり、彼女はルーレットの出目を統計的に分析したりせず、愛すべきチャンス様との巡り合わせに只々期待を込めているに過ぎない。この台詞こそ博打に狂う者の心境を端的に表している。

根拠なき自負の幻影(=チャンス様)が見えているのは彼女だけではない。大勝負を前にアレクセイは次の様に語る。

<<強い情熱的な欲求に結びついたりすると、時にはついにそれを、何かあらかじめ定められた宿命的、必然的なもの、何かもはや怒らざるをえない、生じざるをえないものと思いこんでしまうのだろう!  —中略— くり返して言うが —— 何回かに1回起りうる偶然としてではなく、絶対に起らぬはずのない何かとして、考えていたのだった。>>同,P.239

上記の様に考えた彼の意図は何か。
それは、自身を鼓舞、いやむしろ自己催眠とでも言おうか、要するに彼は勝利を <<宿命的、必然的なもの>> と確信しておかなければ精神が持たない為、自身を欺くことで平衡を保ったのである。結果、彼は大金を手にした。一方で私は、猛獣王に奨学金と教科書代を全投入した際、あまりの金額に一切の思考が停止して訳も分からぬままに負けた。私は地に足が着いていたのである。アレクセイの様なマインドを持つ者は「博才(ばくさい)」があるといってよい。

といったことを考えながら、この感想文を両親に見せた結果、父は私の通帳カード類を焼き捨て、母は静かに泣いていた。

以上

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