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【感想文】ある心の風景/梶井基次郎

『喬陰茎切断願望説』

本書『ある心の風景』の本質、それを端的に申せば「ある心の陰茎」である。
どういことなのか、なぜ作品の本質が「ある心の陰茎」というワードで説明がつくのか、それは以下に証明された。

まず「ある心」とは、女郎買いによる自己嫌悪の念である。それは喬にとって受け入れがたい事実であり、その心境は次の様に自己投影されている。

<<時どき彼は、病める部分を取出して眺めた。それはなにか一匹の悲しんでいる生き物の表情で、彼に訴えるのだった。>>新潮文庫,P.116

上記の通り、彼の「ある心」は風景だけでなく陰茎にも投じられており <<時どき>> と常習である。
そして <<一匹の悲しんでいる生き物>> という客観的な表記から考えるに、喬には陰茎(=自己嫌悪の表象)を切り離したい願望があるのではないか。
要するに、彼は自己嫌悪を陰茎に転嫁して切り離すことで不安を解消しようとしている。
喬陰茎切断願望説(タカシインケイセツダンガンボウセツ)のさらなる裏付けとして、第六章の独白を以下に引用する。

<<私の病んでいる生き物。私は暗闇のなかにやがて消えてしまう。しかしお前は睡らないでひとりおきているように思える。そとの虫のように……青い燐光を燃やしながら……>>同,P.125

上記においても彼は <<生き物>> という語句を用いて、陰茎を独立した別のものとして捉えようと試みる。
しかし、それは叶わないと悟る —— 己の欲望(=病んでいる生き物)は、暗闇の中でも消えることなく青い燐光(=淋病)として燃え続けるという意味の一節から、喬にはどうすることもできない諦め —— 切っても切り離せない心の陰茎はこの一文に如実である。
したがって、私が冒頭で述べたように、この作品の本質は「ある心の陰茎」であると結論付けても差し支えは、これ、一切、ない。

といったことを考えながら、この感想文を両親に見せたところ、父は私に青龍刀を振りかざし母は静かに泣いていた。

以上

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