振り返れば一本道 (第1回)

インタビュー連載、三人目のゲストはアートディレクターの荒井耕治さんです。荒井さんとは20年以上前からのお付き合い。office環のロゴと名刺のデザインもお願いしました。マス広告からwebに軸足を移し、また新たな領域に踏み出そうとしておられる荒井さんにデザイナー人生を振り返ってお話しいただきました。


荒井耕治(あらい・こうじ)
1953年茨城県大洗町生まれ。工業高校卒業後、電気メーカーサービスセンターに入社、退社。インテリアデザイン学校を卒業。バンド活動を経てデザイン会社入社。営業からデザイナーになり、2度目の転社で1979年にT.I.M.E.に入社。1991年4月 T.I.M.E.より独立し、有限会社アライ事務所を設立、広告の企画制作、デザイン事業を開始。 2000年5月 社名を有限会社アライブに変更、広告の企画制作の他にWEBの企画制作も始め、デザイン事業を継続、現在に至る。
読売広告大賞 部門別最優秀賞他受賞多数。
www.hi-alive.com



デザインで食べていけると知らなかった


---- 荒井さん、こんにちは。今日はよろしくお願いします。

こちらこそ、よろしくお願いします。
多分、僕の話は波乱万丈で面白いと思いますよ。


ーー 波乱万丈過ぎて1万字に収まらなかったりして(笑) 
数年前から電動自転車であちこち散歩しておられますよね。工業高校の電気科ご出身とお聞きしましたが、電気科を選ばれたのはどうしてだったのですか?その当時はまだデザインには興味はなかったのですか?

絵を描くことには興味はあったけど、デザインということがどんなことかわかってませんでした。それが仕事になるとも思っていなかったんです。自分には無理とかではなく、そもそも職業になるというイメージが頭の片隅にもありませんでした。

工業高校に進んだのは、物作りに関心があり電子機械を作りたかったからです。そのためには電子科に入らないといけないのに、間違えて電気科に入ってしまいました(笑)


---- 茨城の高校だったのですか?

いいえ、その頃は川崎市に住んでいたので、川崎の高校に通っていました。


---- ギターはその頃から?

兄がギターをやっていて家に楽器があったので、触ってみたりしてね。当時、グループサウンズって流行ったじゃないですか?

ー あぁ、ジュリーとか。

そうです。あとサイモンとガーファンクルとか。最初はそういうのを聴いていましたが、受験勉強をしながらFENを聴くようになってロックに触れて、いきなりロックに変わりました。


ー 高校を卒業されて、電気関係のお仕事に就かれたのですか?

はい、メーカー系のところに入りました。でも、その年のうちに辞めてしまいました。

ー 仕事が合わなかったのですか?

いやー、とにかく上司が嫌で(苦笑)


ー 辞める時に次どうするかは決めていらしたのですか?

いえ、決まってはいませんでした。
それで、正月に友達と明治神宮に初詣でに行った時に、デザイン学校の看板が見えたんです。それで初めてデザイン学校というものがあるのを知りました。それくらい無知でした。

ー デザイン学校が存在するというのを知った時に初めてデザインで食べていける(可能性がある)ことを知ったのですか?

その時は、デザインというかインテリアですね。家具とかそういうものを作ることに興味がありました。でも、これも電子科と電気科を間違えたのと同様に、インテリア学科に入ったら空間の設計ばかりだったんです。それで嫌になっちゃったんです。

その頃にちょうどバンド活動が始まりました。それでも学校は卒業しようと思っていたので、学校とバイトとバンド活動をやっていました。


当時愛用していたギター。バンドのデモテープ音源はこちら


音楽で生きていこうと思ったけれど


ー その頃は、卒業はしようと思っていて、卒業したらどうしようと思っていたんですか?

それは、バンドでやっていこうと思っていました。学校は2年で、その間、バンドはセミプロみたいな感じでやっていました。

たまたま飲み屋で知り合った人が音楽系のひとで、その人にデモテープを渡したら気に入ってくれてマネージャーがつくようになったんです。それで、当時は渋谷にヤマハがあったんですが、そこでイベントがある時には演奏してました。また銀座にもヤマハがあって、そこでも演奏していましたし、吉祥寺でもイベントなんかで演奏していましたね。

ー なるほど。


ここからが核心なんですが、なんで辞めちゃったかというと...

そうやってイベントなどで演奏していると「仕事」と思っちゃうんですけど、ギャラ貰えないんですよね。

ー え?

マネージメントしているところが多分お金払わないんでしょうね。

ー ええ?

多分、ギャラは出てる筈なんですけど、飯は食わしてくれるけどギャラは出ないんです。なんか要するに「プロにしてやってるんだ」とか、そういう感じなんでしょうね。

それでド貧乏になっちゃって。帰りの電車賃もないようになって。そのうちにボーカルが「サラリーマンになる」って言いだして、それで解散になっちゃったんです。


ー そのプロデュースの会社からは...

契約書を交わしたわけでもないし、こっちもなんて言ったらいいのかなぁ...
「プロにならせてもらえるんだ」と軽い気持ちだったのかなぁ。

そういうのが何回か続くうちに、これは食っていけないんじゃないかなぁと。

バイトでなんとか稼げるけど、その一方で片隅に不安もあったりして、「この先、どうなっちゃうのかなぁ」とか。それと、自分がバリバリ歌が歌えればそれでやっていったかもしれない。ギターだけだと、ギターがうまい人はごまんといるし、それでは食っていけないなぁ、と。そう考えているうちに、情熱が冷めちゃったんでしょうね。


高校生の頃に描いたイラスト。友人にプレゼントしたりしていた。


その時に、「そうだ、自分は絵を描いたりできるんだ」と思い、それにトライしてみようという気持ちになったんです。それでデザイナーの会社を探しました。ただし、デザイナーの経験があるわけじゃないし、デザイナーでは雇ってもらえないわけで、営業なら雇ってやるという会社が一件だけあったんです。藁をも掴む気持ちでそこに入りました。そこで女房と出逢ったんです。

ー おー!大事な会社じゃないですか!


最初に入社したデザイン会社で奥様と出逢った

営業からデザイナーへ


ーー その会社は大学の卒業アルバムの制作を事業として立ち上げられた会社だったとのことですが、荒井さんは卒業アルバムの営業をされたのですか?

いいえ、僕は卒業アルバムの仕事には関係していなくて、一般企業などにチラシのデザインなどの売り込みに行っていました。最初からレギュラーで担当していたのはカメラ店とボーリングセンターの二つだけでした。

新しい仕事はなかなか取れませんでしたが、たまたま友達が家具屋さんで新しいショップを立ち上げたので、そこに行ってチラシの仕事をもらってきました。

それを制作するにあたって、誰もやってくれる人がいなかったので、「じゃ、自分でやっちゃえ」と始めたのが初めてのデザインの仕事です。

その会社は面白い会社でしてね、卒業アルバムって、写真は学生達が自分たちで撮るし、レイアウトも自分たちでやるじゃないですか?だから、デザイナーが必要ないんですよね。一人、デザイナーがいましたけど、どちらかというとアーティストで版下などのフィニッシュはできなかったんです。

それで、女房が現場のことができたので、全部女房に教えてもらいました。級数とか、印刷のノウハウとか。


ーー 奥さんの方が先にデザインをされていたのですね。

はい。面白いことに、女房はディレクションされないとできないタイプで、僕はディレクションしたがるタイプ。で、「こんなのできないかな?」とか、やらせてました(笑)

ーー ぴったりのペアじゃないですか。

そうですね。その家具屋さんの仕事の時は、イラストは女房と二人で描いて版下の制作まで一緒にやりました。その結果が認められて、徐々にデザインの仕事をするようになりました。

この時にやっとデザイナーという職業のイメージが掴めてきましたね。勉強したいことがたくさんあったので、ギターも封印して、デザイン関係の本をたくさん読んだり、この頃はとにかくデザイン漬けでした。

第2回はこちら

関連リンク: 有限会社アライブ http://www.hi-alive.com
※写真は全て荒井耕治さん提供



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それぞれの転機(歩む人へのインタビュー)

自分の周りで気になる人にインタビューして記事にまとめていきます。 インタビューしたい人をリストアップして共通点を考えたら、どこかで転機を迎え、そこから新たな道を歩み始めた方々でした。 読んで元気をもらったり、この方々のファンになっていただけたら嬉しいです。
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