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来客があるのに何も準備しないなんて

「ある日のツイートを肉付けして、そのときの気持ちを思い出す」…そんな遊びをしたくなった。Twitterの画面をひらいてから目をつぶり適当にスクロール、手を止めて目をあけたときに画面にあるものが、このツイートだった。

2020.04.02 16:55
来客があるのに何も準備をしないなんてあってはならないという固定観念をすりつぶすことに強く抵抗しながらも、身体は全く動こうとしないので、つまり今はそれしか道はないのである。無念じゃ。

割と最近のことだ。すぐに思い出せた。
この日は子育て支援の方が家庭訪問に来てくれる日だった。年度が変わり、新たに担当してくれる人が挨拶がてら、息子と簡単なゲームをするという約束だった。
私は短時間であれば一般的な普通っぽい人間に擬態することができる。だからこの約束を提案された時も「1時間ならなんとかなる」と思っていた。なのに、この日はなかなか擬態スイッチが入らなかった。
テーブルの上は食べっぱなしの食器やえんぴつ、空のペットボトルやお菓子のゴミ、リモコンやタブレットが危ういバランスで見事に共存している。起き上がってテーブルの上を見るたび、「荒れているテーブル」というデータが私に飛びつこうとするので、「ちょっとうるさいインテリア」と書き換えてからまた寝転ぶ。トイレに起きたついでに一つ二つ食器を運びつつ、あとは知らん顔でまた寝転ぶ。子供たちに話しかけられてもアヘアヘとアホ面で笑うだけで、まったく起き上がらなかった。
約束の時間は17時だった。このツイートをみると、つぶやいたのは約束の5分前。ツイートする時間はあるのに、私は身体を動かさなかった。できないんだもの、あきらめるほかに道はなかった。

約束の時間になり、玄関のチャイムがなることに怯えながら放心状態でいたら携帯が鳴った。二人来るうちの一人とまだ連絡が取れないという。昨夜遅くまで仕事をして疲れていたようだからきっとまだ寝ているかもしれない、と電話の向こうで笑っている。その電話の内容や雰囲気に私はなぜかすうっと力が抜けて、電話を切ると同時に起き上がり、手が届く場所から片付けを始めた。まわりが整うと、少し這って動いては座りこんで片付けて、また動いて整えて……と繰り返し、掃除機の前までたどり着いた。2メートルも座りながら動いたことになる。やっと立ち上がり軽く掃除機をかけたときに、ふとさっきまで自分がいた場所を眺めると別の部屋のようにすっきりしている。私の久々の活動に気がついた子供たちが「わあ!きれいになったね!」といい、「でもこっちは汚いね」と部屋の隅っこの書類や本が乱雑に積み上げられている状態を見て笑った。台所には食べ終わった食器やゴミがそのままだ。ゴミの日を2回続けて忘れていたからゴミ袋からはゴミが溢れ出そうだ。
これが日常。だが、私はこれまで短時間の瞬発力を活用して他人には視覚的に隠し通してきた。それは部屋に来てくれる相手に失礼だと思うからで、自分も本来は清潔な暮らしが好きだからだ。意図して困難を覆い隠したいわけではないし、プロの彼らはいろんな家庭を知っているのだから説明すればちゃんと理解してくれるのではないかと勝手に期待していた。
だが、以前「気づかなくてすまなかった」と謝罪をしてくれた子供の主治医の一人から「知ってもらうこと。想像力だけでは具体的な支援を思い付かない。勇気を出して見せてくれたとき、はじめて支援は動き始める」と言ってもらったことを思い出した。
ふう、とため息をついてから、私はふたたび諦めることを決めた。掃除機を戻し、コタツに座り、テーブルの上をウエットティッシュで拭きながら「そうか、今日はあきらめなくちゃいけないのか」とぐるぐる、手の動きと苦い心をゴリゴリとすりあわせた。

当初の約束から30分遅れて、申し訳なさそうな寝起きの彼と支援の方が一緒に来てくれた。彼らは部屋のことは何も気にしないそぶりで、ただ息子と遊び、帰っていった。だが、そこから私たちへの関わり方はあきらかに変わった。
息子へのサポートで関わってくれていた彼らの目が、いっきに家族単位でのサポートに切り替わったのだった。

人の家庭に入ると、見えない困難の跡や隠しきれない苦手が他人からはよく見えるものだ。私が諦めたことで、彼らにはそれがよく見え、具体的な支援に移行してくれることになったのかもしれない。助けてもらうことは正直苦手だし苦痛もある。ちゃんと生活できていた頃を思うと、ありがたい気持ちよりも大きな情けなさの沼に溺れそうになる。だが同時にこの支援の必要性を身をもって知ることは貴重なことだし、子供たちや私自身の困りごとは、私たちだけのものではない。

家庭のあらゆる苦難は、多様と類似の無数の組み合わせだからだ。 


ぜひサポートをお願いします!ふくよかな心とムキッとした身体になるために遣わせていただきます!!