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旅する土鍋 2018 −微笑みと広場−

2018 07/19 Bologna ボローニャ(ボローニャ山間部)

ボローニャシリーズつづき
ー生きるものとしてー
ーつくりたかった景色–

なぜこ毎年、全身全霊で「旅する土鍋」をかかえてイタリアを回っているの?そう聞かれることには慣れたし、確かにしつこいなあと自身でも思ったりね。まだまだ見たいし感じたいことがたくさんあって、そのひとつが「ピアッツァ=広場」の原体験なのかもしれなくて。


90年のはじめにフィレンツェに住んだ頃、お金もなくて、時代的にもちろんネット環境はなく、通信手段、加えて通話手段すら持っていなかった。時間があれば近くの広場に佇んで、人々の様子をじーっと見ていたり話を聞いてへぇーっと驚いたりクスクス笑ったりしていた。暑ければ寒ければ、家の中でなく広場に出て行った。まだまだ知識も経験も浅かったが、なにも持っていなかったから、ただただ微笑んだ。微笑めば微笑み返してくれた。いつの時代も武器を向ければ武器を向けて返す時代なのに、微笑みだけは顔の色も宗教も超えているように思え、世界をより大切に思えるようになった年齢だったように思う。

今回、各地を「旅する土鍋」と回ってから、拠点とさせていただいているリグーリアの師匠のセカンドハウスに身を寄せて旅取材の整理をしている。ある夕食時に「微笑み」について話しをした。

ここイタリア(イタリアに限らないだろう)で、見知らぬ人々に町や店や道すがら出会う時、電車の中で目があった時、海辺から上がった時、カフェでお茶を飲んでいる時などなど、あらゆるシチュエーションで微笑みを交わし合う。曖昧でその意味こそ説明こそできないが、ないよりあるほうが良いものだということは周知の事実。ある夕食時、師匠はイタリア人としてどんな意味を感じてる?と質問を投げると、一度頭をひねりながら「わたしはオーライ、あなたは?」とか「まあ世の中オーライね」くらいで特に意味はないと手をぐるぐる回すジャスチャーをしながら語る。まあそうだろうし、そう思ってた。日本人同士は、見知らぬ人にこの「微笑み」という曖昧な挨拶を投げかけると、大概の人は一瞬「意味をさがす」という思考回路を持っているように思う。翻って、イタリア人はあえて意味を探さない。師匠はさらりとパンをちぎりながら「われらの文化だね」と。広場に自然と集まり、見知らぬ人同士で隣り合っても微笑みからおしゃべりが始まる。「土鍋」という存在が、どこにでもつくれる広場であってほしいと願って旅をしている。

写真(ヘッダー):DONINI Family & Friend Haruka 
写真(2・3枚目):Guest room of DONINI Family
写真(4枚目):YUMA & MIU a BOLOGNA 

子どもの頃、母が数少ない躾の中で「ニコニコすると何倍もかわいいわよ」と毎日言っていたことを思い出す。あれから特に意味を探してこなかったけれど、今ここイタリアで相手から微笑みを返されるたび、母に大きく感謝しているし、日本人の思考回路もだいぶ緩くなったので、微笑み合う人たちが増えて嬉しい。







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