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金木犀

「私、金木犀の香りって嗅いだことないや。」
何気なく言ったら、友人がビビり倒した。
「24年生きてきて、金木犀の香りを知らないの!?」
その剣幕に私の方こそビビった。
彼女の手には、期間限定のパフューム、「キンモクセイ」が握られていた。大人気で、発売と同時にすぐ完売した香りなんだそうだ。
ほら、と、お気に入りの香水をシュッと空気に吹きかけて、私に香らせてくれる。
「わぁ、甘〜い」
彼女はやれやれ、という顔をした。

私は反駁したかった。だって私の地元に金木犀など無かった…(たぶん)。
だから金木犀はいつも、秋になると盛んに愛でられる花だという印象でしかなかった。田舎特有の花かな、などと思っていましたすみません。

つまるところ、私の中で金木犀は、私の関与しない世界に存在するなにかであった。それ以上でもそれ以下でも無い…都市伝説に近いなにか。


私は今日、かつて2年ほど恋をしていた人と、最後の電話をした。彼女の結婚をインスタグラムで知って、祝福を直接伝えておこうと思った。彼女はさらに手が届かない場所へ行く。だから文字通りこれが最後の電話になる、と意気込んで臨んだ。
結果、撃沈した。
私は色々言いたいことがあったはずだった。
聞きたいことが沢山あったはずだった。
だって、最後なんだから。

あの時、好きと伝えたこと、迷惑でしたか。私の存在は暇つぶしか何かに過ぎませんでしたか。あるいはあなたを繋ぎ止められることができない、私の力不足でしたか。私が貴女を忘れた方がうれしいですか。連絡はもうしないほうがいいですか。もう一生会えませんか。

結局、おめでとうございます、くらいしか言えなかった。勿論、そのひとことが一番重要だ。
でもその背後にある、言葉にならないほどに大量の文脈を、彼女はもう一生知りようもない。それでよいのか、それがよいのか、も私にはわからない。もしそのすべてを伝えられたなら私はすっきりするだろうけれど、それは独りよがりだ。
一生会う気もないならもう、独り善がりでよかったかもしれない。でもそれができる私ならウダウダここに書き連ねることなんかしていない。

期待していた展開の全てを裏切られた私は、電話後の夜更け、ふらっと外に出た。コンビニにでも行こうと、なんとなくいつも通らない道を進んだ。
深夜23時。駅の裏路地に着いた時ふと、甘やかな香りがふわ、と鼻腔に広がった。
なんだ?と思い上を見た。一面に橙の花があった。駅の街頭に照らされた橙はあざやかだった。初めて見たけれど、すぐにわかった…これこそが、かの"金木犀"なるものか、と。

というわけで私は、人生で初めて金木犀と対面できた。予期せぬタイミングだったが。
ひとびとがいうようにひたすら甘い。花特有の青々しい香りもあった。調べてみると金木犀の花言葉には、陶酔、というものがあるそうだ。なるほど。
私はこの香りを覚えたいと思い、肺一杯に吸った。それでも次の瞬間には吐いてしまう。呼吸とはそういうものだ。
呼吸をすれば当然に香りは抜け、空気は否応にも体内を循環し外へ出ていく。香りを私の中に留めておくことなど、できはしない。秋もまた移ろいゆくものだ。人の心だってそうだ。それが悲しい。とても切ない。私は何度も金木犀の香りを吸っては吐いた。なんか泣きそうになりながら、コンビニの前で突っ立って、ひとり、そうしていた。

──あんたも、幸せになってね。
聞きたくもなかった。そんな言葉。

概して、言いたい言葉を何も言えず、聞きたい言葉を何も聞けない電話だった。これが私たちの最後の会話であるのだとすれば、あまりに心苦しく、それでいて妙に現実的だと思った。つまり、止まることも変わりゆくことを止めることもできないのだという真理があった。

私たちが本音で語り合えたあの時間はもう戻らない。あの夜の体温も香りももう戻らない。もう何もかもが過ぎ去って私の中には何も残っていない。もしかしたらあれは幻想だったのかもしれない。嘘だったのかもしれない。夢だったのかもしれない。
ひとびとが焦がれてやまない、永遠とか唯一とか約束とか不変とか、そういう概念は何一つ持ち得ない。ひとびとが欲してやまない、生産性とか正当性とか安定とか意義とか、そういう類を何一つ兼ね揃えない。

でも、だから堪らなく大切で愛してしまうなにかであった。


金木犀。
きみが毎年ひとびとに秋を思い出させるように、彼女の記憶の片隅でふとした時に、私を反芻させられるものがあればいいのに。彼女の中に、私を思い出させられるものを、なにかひとつでも残せたらよかったのに。いつも抱きしめられるようなものじゃなくていい。そんな贅沢はもう望まない。香りでも感触でも、言葉でも爪痕でもよかった。だが結局のところ、彼女の中を吹き抜けた風でしかなかった。

既に私が一番好きな季節に移り変わったというのに、私の中ではいまだに、酔うほど甘やかな気持ちを大切に大切に抱きしめ続けた真夏の空気が、記憶が、あんまりに鮮明に燻り続けている。

フェアじゃない。
馬鹿馬鹿しくて泣けちゃうよ。
金木犀になりたい、私は。

金木犀。
また一年後かに、何処かでその香りを思い出させてくれるなら、それが私の生きる目的になるだろう。その為に次の秋まで生きるのもありかもしれないと私はいま本気で思うくらいなのだ。

だから私には、金木犀のパフュームは必要ない。

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