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リモンチェッロ

なんだか寝付けない夜は、決まって夜更けまでキッチンに篭るのが、私の常だ。

1週間前の夜中もそうだった。
生あたたかい夏の夜、ぼんやりと、ああまたこの日かと動揺も無く、私は早々にタオルケットを引き剥がした。
冷蔵庫の上には、レモンが4つ転がっていた。ころんとしたそのフォルム、かたくてしっかりとした皮、熱気で靄がかった気分をはっとさせてくれるようなビビッドイエローに惹かれて、その日の昼間に購入した。

よし、今夜はリモンチェッロを作ろう。そう思い立ったのだ。

材料
レモン4個と、スピリタス1本分、それだけ。

いや、それだけではなかった。音楽も不可欠。

私は音楽がないと生きていけない…というと、なんだかパッションのあるサブカル系さながらに聞こえるかもしれないけれど、そんな能動的なポリシーではない。
私にとって、音楽は最大の暇潰しなのだ。聞き流していないと不安になる。予防線であり、掃溜めであり、投影でもある…我ながら、極めて受動的なリスナーだと思う。
無音だと、驚くほどに考えすぎてしまう癖が出る。空っぽの状態で考え、疲弊してしまう。だから考えたいときは無音だが、考えたくないときには音楽が不可欠なのだ──夜などはとくにそうだ。
だから私は、緻密なプレイリストを作っている…「半身浴用プレイリスト」「出勤したくない朝のプレイリスト」「雨上がり散歩用のプレイリスト」なんて風に。
当然、「料理をするとき用のプレイリスト」もある。だが、1週間前の私は、「料理をするとき用のプレイリスト」の気分ではなかった。私はiTunesの選曲に身を委ねることにした。

すると、米津玄師のカナリヤが流れてきた。私は彼の音楽が好きだが、その曲を知らなかった。カナリヤは、最新アルバム「STRAY SHEEP」の最後のトラックにある曲だった。

いやでも、米津玄師なら、むしろ今はレモンを流すべきでは…と、私はレモンを見ながら思った。

──まあでも聴いてみるか。

カナリヤを流し続けながら、レモンの皮を、黄色い部分だけ剥いていく。

いいよ あなたとなら いいよ 
もしも最後に何もなくても
いいよ いいよ いいよ

私はカナリヤが心底気に入ってしまった。
エンドレス再生にしながら、残ったレモンの果実を絞り、レモンスコーンにすることにした。

焼けるのを待っている間、剥いだレモンの皮を保存容器に入れ、スピリタスを注いでいく…その瞬間、しゅわしゅわと気持ちの良い音がして、レモンの酸っぱい香りと、度数が強烈なアルコールの香りがツンと鼻腔に広がった。ああこれ、ハマってしまったな、

いいよ あなただから いいよ 
誰も二人のことを見つけないとしても
あなただから いいよ
歩いていこう 最後まで
はためく風の呼ぶ方へ

あと1週間もすれば、レモンの黄色が滲みだして、レモン色の液体になっているだろう。

そうしたら、蜂蜜と煮込んでレモンシロップにしよう。それを入れれば、レモネードにも、レモンスカッシュにもできる。だから安心しよう。こんな、決まり切った喪失感を、先取りでいま感じる必要はないのだ、と言い聞かせた。

レモン2個分の果汁を贅沢に使ったレモンスコーンは、甘さが控えめで、さくさくで、中身はしっとりしていた。今リモンチェッロが出来上がっていれば、レモンスカッシュと一緒に食べられたのに、と思ったが、それはまた今度の夜中に、きっと。


その夜から1週間が経った。
リモンチェッロを漬けた夜から。
「幸せになれよ」と頭を撫でられ、その恋が終わってからは、もう丸3日。
はやいね。1週間もあるのか、と、レモンの皮を剥いていた時は思っていたのにね。

叶わないことを予め、物分かりよく理解していた、それでも好きだという気持ちをあまりに代弁し、受容してくれた。あなたのような人がいい、ではなく、あなたがいい、と初めて思えた恋だった。
いいよ、あなただからいいよ。
本当にそんなふうに、すべてを許した恋だったなあ。

口ずさめるようにまでなったカナリヤをもう聴けないまま、いま私は、うつくしくレモンイエローに染まったスピリタスをただ見つめている。
どこまでも澄んでいる。氷をたっぷり入れたグラスに、炭酸や水で割ってミントを飾ってもいいし、そこにバニラアイスなんかをのっけてメロンソーダならぬレモンソーダを作ってもいい。砂糖と煮詰めてシロップにして…そうしたらきっと甘酸っぱくておいしいから、ジャムにもできるし、チューハイと合わせてレモン風味のカクテルもできる、パンケーキやマフィンに混ぜてもいい。
これからレモン尽くしの生活が出来る。暫く、寝付けない夜の処方箋は手に入れた。安心だ。沢山使ったって平気だ。沢山作ってしまったから。なにしろスピリタス1本分ある。
一人暮らしで消費するのには時間がかかる。

このレモンイエローがなくなる頃には、私はスッキリサッパリ、前に進めているのだろうか?寝付けない夜も、新しい季節の果物、例えば次はイチジクなんかを愛でて、夜な夜なイチジクのタルトなんかを作って、そのお供には、米津玄師の新曲なんかを流し聴いて、鼻歌を歌いながら。
そんなふうに、これからも日付を跨いで、季節を跨いで生きていくのだろう。

それともこのレモンイエローは、あつかましくも私の未練と余韻を想起させ続け、夏の残り香として空っぽの私の中を支配し続けるつもりなのだろうか?
すきっ腹にアルコールを入れたときみたいに、ひりひりと、気怠く。そして鼻腔をくすぐるレモンの皮の香りのように、少しにがく、恨めしいほどにさわやかに、生涯忘れられない香りになるのだろうか。

☪︎·̩͙リモンチェッロ・☪︎·̩͙

*材料*
レモン4個
スピリタス1本
「カナリヤ」(米津玄師『STRAY SHEEP』)
*作り方*
1.レモンの皮を剥く。白い部分が入らないように、黄色の部分だけ。
2.煮沸消毒した保存容器に、皮を入れる。スピリタスをどばっと注ぐ。
3.1週間、現実に目を向けて気長に放置しておく。
 その間、好きな人に好きだと伝えておくといい。
 1週間があっという間に過ぎるので。

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