見出し画像

母のこと

2023年12月5日午前7時8分
母は病院で緩和ケアを受けながら息を引き取った。
81歳。
日本女性の平均寿命が87歳。
毎月の町の広報誌に載る「お悔やみ」の多くが90歳を超える方たちばかりのなか、短いようにも思える。
けれど、わたしの母として55年、姉の母として57年は、
わたしたち姉妹にとって決して短くはなかった。

今年の2月に末期の骨髄腫ということがわかり
すぐに緩和ケアの手配をした。
昨年の7月に父が亡くなる前から体調不良を訴えていて
わたしは整形外科での検査を勧めていた。
手のしびれ、歩行中の脚の痛み、
下肢に現れる症状が脊柱菅狭窄症のそれと酷似していたから。
まずは画像診断、それからリハビリや疼痛ケアをするつもりでいた。
セキチュウカンキョウサクショウ
これが母には理解不能だったようで、通風ではないか、リウマチではないかと内科や神経科ばかりを受診し、異常なしの診断が何度も何軒からも出され、恐怖を募らせていた。

脳梗塞でいささか不自由の残る父よりも
自分のほうが早く死ぬのではないか、入院せねばならないのではないか、、、
それを恐れた母は
鬼の形相で父を駆り立てた。

心身ともに疲れ果てた父は
尿路感染をこじらせ
ついには自力でトイレに行くことも、歩くこともできなくなり
入院して治療を受けたが
すでにとき遅しで気力も体力も残されておらず
敗血症による衰弱死だった。
2022年7月9日午前2時半
父は律儀に「もう逝くよ」と挨拶にきてくれて
わたしは目が冷めた。
その直後に病院に駆けつけた姉から亡くなったと連絡が入った。

新興感染症による面会制限の中
家族とは自由に会うことができずに病院で最期を迎えた父であったが
せめてもの救いは
いまわのきわになってまで、母のキーキー声を聞かずに済んだことだろう。
優しい看護婦さんに囲まれて穏やかな最期だった。

まだ元氣でバードウォッチングが趣味だった父に
「車の免許があればもっと自由に行きたいところへ行けたのにね」
と聞いたことがある
父は「助手席にお母さんが乗ることを考えたら無くてよかった」
と言った。
父は母へのなんらかの責任を感じていたのだろうが
それが「愛」だったのかどうかは、わたしはわからない。

その後も母は動悸が加わったものの同じ体調不良を訴え続け
整形外科へ行くようにとのわたしのアドバイスは
10月になってようやく実現した。

母は「セキチュウカンキョウサクショウだって」とわたしに告げた。
予想通りである。
狭窄が起きている部位を聞いてもよくわからなかったが
とにかく姿勢に気をつけることと
筋力低下を起こさないように小まめにあるくこと
冷やさないことなどを伝えた。

年が明けて不調がつづく母は再び整形外科を受診。
そこで担当医が血相を変えて怒ったらしい。

「症状は脊柱菅狭窄症だけれど、
画像には精密検査を要する影が映っているため
すぐに大学病院で検査を受けるように」と指示が出されていたのだ。

「そんな話は聞いていない」という母と担当医は
言い合いになり姉に連絡が行った。

関西医大病院に姉が付き添い、検査を受け
2月28日わたしも一緒に検査の結果を聞きに行った。

画像を見て驚いた。
原発は肺がんのようだけれど、全身の骨という骨に骨髄腫が転移していて
特に首と左の腸骨と仙骨には集中している。
しかし、無症候性ということで臓器の機能低下や貧血症状は全くなし。

医師としてはもはや打つ手なしということで
早急に在宅看護と緩和ケアの手配をして
元氣なうちにやりたいことをしておいてください…とのことだった。

今はたまたま無症候性なだけで、
症状が出始めたらあっという間のパターン。
しかも淋病マヤズムの人である。
肺がんが進行するのが早いか、貧血症状が出るのが早いか、腎機能が低下するのが早いか…予測はつかないが、症状が現れたら長くはないだろう。
食欲は相変わらず旺盛だけれど
痩せてきているので夏が越せるだろうか…。
…それがわたしの印象だった。

父に対してもキツかったが
父が亡くなったあとの姉への依存は増すばかりで
叔母(母の妹)にも迷惑をかけていたため
認知症や寝たきりになって姉、叔母、わたしが参ってしまわないように
父が迎えに来てくれるのだと思った。

わたしの予想よりも長く
長引く看病を恐れていた姉の予想よりも短い余命だった。

週に1度の訪問看護が入るようになったのが10月末。
肺水腫を起こすようになり、息苦しさと動悸が酷くなってのことだった。
血圧や胸の音を聞き、服薬状況を確認するだけの訪問だけれど
訪問看護ステーションに繋がっておけば
体調不良を感じたときに連絡しやすくなって姉の負担が軽減するはずだった。

11月になっても習い事に行き、旅行にも行き、それまで通りのわがままぶりを発揮していたが19日からの呼吸困難で酸素をつけるようになったら早かった。

1L/minで始まった酸素は翌日には2Lになり、自宅での管理は無理だということで緩和ケアに入院したのが11月21日。

叔父、叔母、東海市の親戚などがお別れに来た22日にはわたしも病院に行ったが、少しでも動くと動悸がして苦しそうにしていた。22日の夜は実家に泊まったのだけれど、翌日家をでるときに電話をして施錠までの指示をしなくては気が済まないらしい。言われたとおりに電話して電気を消したか、ガスは火がついていないか、風呂の換気扇や給湯器は、階段やトイレの電気、居間の電気、玄関の施錠…細かく指示を受け、全部母の思い通りだと安心させた。信頼されないわたしの心は穏やかではない。もっとも誰のことも信頼などしないのだが。

病院と実家は歩くと20分と少しくらいの距離にある。
病院に着く手前にあるのが、姪(姉の娘)が通った大学のキャンパス。
姪にとっての祖父母の家から至近距離の大学に通うのに下宿させてもらいたいと思うのはおかしなことだろうか。姪は頼んだのだが母(姪の祖母)に却下され、神戸の実家から2時間かけて通うことになったのだ。母が入院する病院へ向かう道すがらそのキャンパスの前を通るとき、この道が姪の通学路とならなかったことを思って胸が苦しくなった。

そんな痛みには頓着せず、母の苦しさは最期に向けて増していった。

23日には東京から息子とそのパートナーも会いに来てくれて、25日の朝まではうちに滞在してくれた。25日と26日は和裁講座、27日からは熊本での仕事で30日まで身体が空かず、わたしが次に行ったのは12月1日。

姉は27日から12月9日までの北欧旅行に出かけており、叔母と姪が交代で母に付き添っていたのとバトンタッチする形でわたしが付き添った。

姉にとっては母につけられていた手綱を断ち切るための旅行。わたしにとっては失っていた誇りを取り戻すための付き添いだった。

1日の時点でかなり辛さをましていた母は、ほとんど飲み食いすることもできなくなっていて、白粥をひとさじ、お茶をひとさじ飲み込むのもやっとの状態。それでも「食べたい」「食べなきゃ死ぬ」「飲みたい」「ごくごく飲みたい」「起きていたい」と言う。

付き添いや見舞いは自由にできても、泊まり込むことはできないと聞いていたので1日の夜は駅前のネットカフェで仮眠を取ることにした。病室から出るときに「どこに泊まるのか」「家の鍵を締め忘れないように」とこの期に及んでもまだ管理しようとするので、「近くのホテルに泊まる」とだけ告げて病室を出た。いつ急変するとも限らない母を病室においてぐっすり眠れるわけもなく、それでも3時間程度は目を閉じてカラダを安め、また病院へ。

刻々と苦しさを増す母の様子は見ていて心地よいものでは無く、かといって水を口元へ持っていくとか、さする以外にできることもなく、呻くような声をあげ、「食べたい」「飲みたい」「起きたい」を繰り返す母。自分でトイレに行けたのは1日の夜中が最期になり、その後はおむつになる。

おむつの内側に当てる尿とりパッドの大きいものを準備しておくよう言われ、午前中はイズミヤまで買い物へ。昼過ぎに叔母が来てくれて、わたしはカットに行き、夕方には姪も来てくれた。

どんどん死へのおそれが出てきたようで
「食べなきゃ死ぬ」と
しきりに食べたがるが喉をとおるものはほとんどない。
せいぜい水かお茶。
高濃度の酸素とモルヒネのせいで譫妄もはじまり
人の判別が難しくなってきた。

夜中すぎに仮眠を取るためにネットカフェに行こうとしたら
当直の看護師から「急変するかもしれないので電話をとれるようにしておいてください」と告げられ、「泊まることができないと聞いたので…」と言うと、家族室は使用できないが病室のソファベッドで休むのはかまわないらしい。どうせゆっくり休めるわけもないので、ソファベッドを使わせてもらうことにした。

呻く、泣く、なだめる、休む…の繰り返しで、明け方にウトウトしたがすぐに目が覚めて夜が開けたことを知る。

おむつへの排尿が難しいらしく、譫妄も強くなってきているのでモルヒネを増量。
効いてきたタイミングで導尿カテーテルを挿入。
すぐに150cc溜まった。
それまで着ていたパジャマから、ケアしやすいように前開きの患者着を借りて着替えさせてもらう。

うわ言のように繰り返す
「食べたい」「飲みたい」「起きたい」をもはや叶えることもできず
口に水を流すもほとんどがタオルに沁みていく。

叔母も来て、姉と連絡をとりあい、4日から鎮静を掛けてもらうことにする。

姉は自分のことを呼ばないのかと聞き、
わたしは呼んでいないと答える。
ショックを受ける姉に「誰のことも呼んでいない」と伝える。

実際、口から出るのは「食べたい」「飲みたい」「起きたい」。

睡眠不足からかなり疲れてきたので10時頃に眠気が来るが、断続的にしか眠れず5時には目がさめてしまった。それでも夜中は鎮痛剤の座薬が効いてくれてそれほど騒がずに寝てくれていた。

7時頃にはその座薬も効き目が切れてきたのか
眉間にシワを寄せてうめき声を上げる。
うめき声を上げながら脚をバタバタさせて布団を蹴飛ばす。
つま先は紫色になり、浮腫んでいるのに、
どこにそんな力が残っているのかと思うほど脚は力強くばたつかせるので
ベッドの柵に打ちつけてしまわないように必死でガードする。

さするとすぐに収まるのだけれど
呻く、バタつく、なだめる…を繰り返すのはかなりキツい。

10時50分に鎮静剤ミダゾラムの投与を開始。
腹部にモルヒネとは別のルートを皮下注射でとったが針が刺さる刺激への反応はもはや無かった。

11時10分、ミダゾラムが効いてきて気道が緩んだためか噎せて暴れる。
コールで吸引の準備をしてもらううちに収まる。

うめき声を上げるが眉間にシワが寄らなくなってきた。

脚のバタつきはやまず、うめき声とセットで苛まれる。

「起きたい」とうわ言を言うが
ベッドを起こしても支えられずに崩れ落ちるため
すこし傾斜をつけてクッションで周りを固める。

なんどもクッションの位置を変えたり
暴れる脚をさすったり
手を握り、背中に手を当ててなだめるが
うめき声と涙と脚のバタバタは断続的にやってくる

なだめ終わるたびにわたしは頭を抱えてうずくまり涙をこらえる

13時30分にミダゾラムを増量してもらう。

痛みと苦しみは嫌だと本人がずっと言ってきたことなので
苦しみから開放されることを優先した。

手が冷たくなってきてパルスオキシメーターでの正確なデータを取ることはできないが、飽和度が85を切ったので鼻からの酸素ではなく、マスクに変えてもらう。もう自分ではずすこともないだろう。

その後もうめき声と涙が断続的に起きるので
17時55分にモルヒネを増量、ミダゾラムはショットで追加してもらう。

20時下顎呼吸に近くなる

12月5日午前1時 はっきりと下顎呼吸になる 動きが止まる 呼びかけへの反応なし

父、祖父母の気配がする。

行こう、行かないの押し問答をしているような気配。

夜明けとともに祖父母の気配が消える。

午前7時8分 息を引き取る
最期の息を吐くときに「あー」という声。
その後、肺がしぼんでいくゴボゴボという音。

父の気配も母の気配も無い

霧が晴れたようにかき消えた

すぐにコールして看護婦さんが来てくれて、当直の医師が宣告してくれたのが7時18分。

お母さん、お疲れ様

最期の時を迎えたら
生んでくれてありがとう
お母さんの娘でよかった
大好きだよ
と、思えたらいいなと長くうっすら期待していた
が、期待したような気持ちにはならず
「この時間をくれてありがとう」
というのが正直な気持ち
思い出をなにひとつ語り合えなかったね
誰のことも呼ばなかったね
そんなあなたから与えられなかったものをわたしは
与えられるようになったことを誇らしく思う
種が根と芽を出すときに水と養分と光は必要で
それらが足りないと丈夫な茎や葉は育たず実を結ばない
植物だけではなく動物も人も同じ
充分な水と養分と光が欲しかった
丈夫な茎や葉に育ちたかった
憎しみも恨みもないけれど
わたしが今ここで感じる愛おしさは
求めても得られなかった暖かな眼差しや優しさを
自分は与えられた「時間」へのものだった
この時間をくれたことに感謝します

姉は母が逝ったという知らせを旅先で受け取ったあと
それまで悩みのタネだった蕁麻疹がまったくでなくなった

母の存在がどこかに突き刺さっていたのだろう

ニコラも元夫の声を聞かずに済むようになった途端
蕁麻疹から悪化したお腹の湿疹がケロリと治った

ヒトは症状の原因になりえるのだ
毒になるヒト、それが母だった

他人が聞いたら「悪口」にしか聞こえないのだろうが
わたしたち姉妹にとっての母の思い出は
怖かった、嫌だった、辛かった、悲しかった、軽蔑した
というようなネガティブなエピソードだらけ

母は、姉を支配し、わたしを嫌った

わたしは、わたし自身でいることをやめられず
四六時中母を怒らせた。
食べるのが遅い、少ししか食べない、カラダが小さい、弱い
好みをはっきりと言う、言いたいことは言う、

姉は母のご機嫌をとらなくてはいけないと思い
母にとっての「いい子」でいることに全力を尽くした

「いい子」ではないわたしを虐める母に同調してわたしを虐めた

母がわたしを虐める理由は納得できなかったが
姉がわたしを虐める理由は理解できた

わたしを哀れに思った父は
家にいる間はわたしをかわいがってくれた

母と一緒になってわたしを虐める姉に父は厳しかった

わたしを虐める母をたしなめることは父はしなかったが
姉には厳しくしたのだ

姉はわたしを憎んだ

わたしは姉を尊敬したし、気の毒にも思った

姉とわたしが和解できたのは姉が50に差し掛かったころだった
持病が悪化してわたしに助けを求めたのがきっかけだった

母に奪われていた自分自身を取り戻す旅が始まり
わたしとも和解できた

母はそのことを怒った

影響を受けすぎている、あまり会うな…と言ったらしい。

姉とその娘の姪が母の眼の前で仲良くすることも嫌がった。
三人で会うのは嫌だ、ひとりずつ来い…と。

母の笑顔は写真の中にはたくさんある
けれど、幼いわたしたちが見上げる母は
いつも眉間にシワの寄った険しく恐ろしい顔で
監視し、怒り、脅し、不平不満を言い、一方的に決めつけ、
わたしたちが悲しんだり怯えたりする様子は
ニヤニヤと眺めるのだった。

棺に収められた母の手を見て
「この骨ばった大きな手に何度も叩かれた」ことを思い出した
眉間のシワがきれいに伸びた死に顔を見て
「優しい笑顔で話を聞いて欲しかった」ことを思い出した
何も言わなくなった母を見て
「わたしがいないほうがお母さんは幸せなはずだ」と
姉もわたしもそれぞれにずっと思っていたことを思い出した

タイトルの写真は幼い頃の毎年の恒例行事として、
初詣の帰りに見せられていた地獄絵図。
「お母さんの言う事聞かないと…」という文脈で
母はあらゆるものを利用してわたしたちを怖がらせた。

わたしたちは今で言う「精神的虐待」を生き延びた

悲しみ、恐怖、怒り、屈辱感、劣等感、絶望、を
娘ふたりにたっぷりと与えた母はいなくなった。

子どもの頃、母のことで悩みを相談した人からは
「子どものことを愛していない親などいない」
「親になれば親の気持ちがわかるようになる」
そう言われたが、愛されている実感など全く持てなかった
全く持てなかったから自分の子どもが実感できるようにと努力した
親になっても子どもに意地悪をする親の気持ちはさっぱりわからなかった
怒りすぎたときは謝った、怯えていたら安心させたかった、悲しんでいたら慰めた、辛いことは共感で乗り越えた

親の愛情を感じることができた人にとっては
「子どもを愛さない親」の存在など信じられないのかもしれない

でも「親に愛されていない」
という子ども時代を生き延びた人は存在するのだ

社会の歪みや価値観の違いによる「しわ寄せ」から
弱いものへと向かう暴力もあるだろう
無力感や劣等感を補うように子どもを道具として濫用する人もいるだろう
大切に思っていてもそれを表現する余裕がなく
子どもを雑に扱ってしまう人もいるだろう

背景はそれぞれあると思う

苦しみが連鎖したような背景は無く、
何不自由無く、苦労もせず、いいご身分であるにも関わらず
安心感や優しさを与えることを「しない」人もいるのだ

父のことは尊敬できた
もっと親孝行したかった
でも、母がいたために難しかった
父は母をたしなめなかった代償を払った
母は最期まで誰にも諌められること無く
思い通りの人生を生き、死を恐れ続けた

わたしたちに刺さっていたトゲ
わたしたちを縛っていた鎖
わたしたちを押さえつけていた重石はもう無い

わたしたちは残りの人生を自分のため
周りの人の幸せのために使うことができる

自由だ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?