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島育ちのおじいちゃんへ

拝啓 おじいちゃんと皆様へ

こんにちは。ためまると申します。

お忙しい中ご覧くださり誠にありがとうございます。


本日は私の祖父の話をさせていただきます。父のお父さん、私の祖父のお話です。

おぼろげな記憶ですが、両親は共働きで保育園のお迎えは決まって祖父か祖母でした。周りはお父さん、お母さんが迎えに来てくれていました。でも寂しくはなかったです。理由として、祖父と祖母が大好きだったからです。

保育園と祖父の家は歩いても15分くらいの距離ですが、祖父が迎えにきてくれる時は車でした。保育園の前にどーんと駐車してニコニコしながらお迎えに来てくれました。

私はいつも優しくてニコニコしている祖父が大好きでしたが、父の話ですと相当厳しい方だったようです。何度怒鳴られ喧嘩したか分からないと笑っていました。

祖父の出身は沖縄県の入口、那覇空港からプロペラ式の飛行機に乗っていく久米島というところです。信号は島に一つしかありません。島の子どもたちが島外にでて困らないようにと勉強用で作ったと噂があります。見渡す限りのさとうきび畑、酪農も盛んで牛も豚も沢山います。

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今でこそリゾート開発が進んでおりますが、まだまだ自然あふれる豊かな場所です。真っ白な砂浜だけで出来た「はての浜」が一番有名な観光地かもしれません。オーシャンブルーと白い砂浜が本当に美しく、訪れる方を魅了します。(画像はお借りしました)

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また子宝に恵まれるというパワースポット「ミーフガー」や、自然にできたはずなのにキレイな亀の甲羅のような模様の「畳石」、横に広がる立派なリュウキュマツの大木「五枝の松」、島を一望できる絶景スポット「宇江城(うえぐすく)城跡」など、魅力たっぷりの場所です。

そんなすてきな場所の出身の祖父ですが、縁あって長く東京に住んでおりました。バスの運転手を生業とし妻である祖母と一緒に父含め3人の子どもを育て、大きくはないかもしれませんが東京に一軒家を持ち幸せな家庭を築いておりました。

人柄もよく、誰にでも好かれ、私の自慢のおじいちゃんでした。

そんな祖父が癌になりました。私が聞かされたのは発見されてからしばらく経った後でしたが、のちに聞いた話によるともう転移しており、難しい状況だったみたいです。

年末はいつも親戚一同祖父の家に集まり、年越しそばとして祖母お手製の沖縄そばを食べます。その年も例年と同じように祖母の家を訪れ、私はいとこと一緒に大好きなおじいちゃんと年明けを楽しみに待っていました。

その時、祖父が急に立てなくなりました。

お手洗いに行こうとして立ち上がろうとすると、足に力が入らない。どんなに頑張っても立てなかったのです。結局父や父の弟に抱えられ立ち上がりましたが、結局お手洗いは間に合いませんでした。おじいちゃんはすごく悲しそうな顔をしていたことをなんとなく覚えています。

翌年すぐベッドが置かれました。介護用のベッドで大きく、居間を占領しました。今考えると申し訳ないですが、おじいちゃんと一緒にゴロゴロできる!と考えた私はそのベッドに潜り込み、おじいちゃんとテレビを見てお父さんによく怒られました。

辛い治療にも耐えて続けておりましたが、ある日入院が決まりました。担当して欲しかったお医者様の関係からか、自宅からはほど遠い場所でした。

私がお見舞いに行くといつもの笑顔で迎えてくれました。その日はランドセルを背負い、もう少しで小学生になる姿を見せにいきました。今思うと父が最後になるかもしれないと考えたのでしょう。

私は残酷にも「入学式に来てほしい」とお願いしました。祖父はその言葉を聞いて、「必ず行くね」と、一言約束してくれました。祖父をはじめ、周りの大人たちはどれだけ心が引き裂かれそうだったか、当時の私は本当に罪深いと思います。

ある日突然、父と母が慌ただしく出かける準備をしました。何事かと思えば「おばあちゃんちで待っててね」と言われ、いとこと共に祖母の妹と祖父の家に連れて行かれました。

祖父が危篤だと、連絡が入りました。

祖父の家でのお泊まりは大好きでしたが、子どもながらその日はただ事ではないと察していました。不安でしたが、一つ下のいとこもいたので見栄を張り平然を装っていました。

電話がなり、祖母の妹が取り、その日祖父の死を聞かされました。「じいじはお星様になったのよ」と。

皮肉にもその日は、4月1日でエイプリールフールでした。私は嘘だと思いました。だって祖父は、入学式に来てくれると約束してれていましたから。

そこからはお葬式と告別式、それに私の入学式の準備と父も母もあまり眠れなかった日が続いたとのことです。

人徳のある祖父でしたから、お葬式には大勢の参列者に来ていただきました。父が芸能人のお別れ会だとおもったと、いまだに笑っています。

未だに覚えていることが、お葬式と告別式では泣いてはいけないと思い我慢していたことです。大好きなおじいちゃんに涙は見せられないと、笑顔で見送らないと、と何かを必死に耐えていました。

祖父は生前、入院してから「沖縄に帰りたい」と口癖のように言っていたみたいです。幼少期を過ごした、生まれた場所へ帰りたいと。何もないかもしれませんが、祖父にとってはたくさん大切なものがある場所へ、一度でいいから帰りたいと言っていました。

その意向を聞き、お墓は沖縄にあります。私も沖縄に行った際は必ずお墓参りに行きます。高台にあり、左手に東シナ海、右手に太平洋、目の前には沖縄の街並みが広がる良いところです。

じいじ。大人になった私の話を聞いてほしいです。この場を借りて話すので、少し聞いてほしい。

あれから小学生になり、義務教育を終えて大学も卒業し、今は会社に勤める社会人になりました。辛いことも沢山ありました。でも、それ以上にいま幸せです。

この先、じいじの年齢を超えた先まで共に過ごしていきたい方にも出会えて、結婚しました。

私は楽しくやっているので、安心して泡盛でも飲んでてください。そっちに行くことになったら、またニコニコ迎えてくれたら嬉しいな。

祖父の夢をたまに見ます。立てなくなったはずの祖父が、一面の菜の花の中で立って待っています。「おいで」と呼んでくれ、6歳くらいの私が駆け寄ると抱きしめてくれる夢です。小さい頃行った公園で実際に同じようなことがあったので、その夢だと思います。

あなたを忘れたことはありません。これから先も、私にとって自慢で最高で大好きなおじいちゃんです。

ありがとう。


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