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それは、魔法という名の漂白剤【博物館とディズニーランド③】

「ディズニーランドには博物館のような役割もある」

そう聞いてあなたはどう思うだろうか?
納得するだろうか、それとも疑問を呈するだろうか。

私は、そのどちらも正解であると思う。

この記事は、『さわって壊せる文化財【博物館とディズニーランド②】』の続き。この記事では、博物館とディズニーテーマパークを取り巻く2つの議論を紹介しつつ、博物館とディズニーランドの関係性の行く末を考える。


「カリブの海賊」のウソ

東京ディズニーランドにも存在するアトラクション「カリブの海賊」。
前回の記事では、このアトラクションがはじめて設置されたのはカリフォルニア州ディズニーランドの「ニューオーリンズ・スクエア」であること、実在の都市ニューオーリンズはメキシコ湾に面しており、ジャン・ラフィットという海賊が名を馳せていたことなど、アメリカ地域史としての「カリブの海賊」を見てきた。しかし、この物語には壮大な「ウソ」がある。

アメリカの人々は海賊に強い憧れを持っているという。自由、冒険、宝物といったイメージだけでなく、当時の海賊は仲間内での不文律や国家との協定を重んじる仁義深い性格であることが多かったようだ。映画『ピーター・パン』の舞台はイギリスではあるが、登場する子どもたちは海賊になって戦うことに憧れている。
さて、「カリブの海賊」製作のために情報収集を命じられたある人物が海賊に関して調べていくと、決闘で華々しい死を遂げたというような英雄的な海賊はごく僅かで、実際は梅毒に感染して亡くなっていく人物の誠に多いことがわかった。

しかし、それではディズニーのエンターテイメントにはならないし、アメリカ人の理想とする海賊像から大きく隔たっている。
そこで彼らは抜け道として、物語の起承転結を「起承転」にすることとした。つまり、はじめに海賊たちの亡骸を見せ、海賊たちの悲惨な最期を象徴的に表したのだ。“Dead Man Tells No Tails……”「死人に口なし……」の言葉が響く中、ゲストが煙の中を抜けた先には、かつて海賊たちが隆盛を誇った時代が待ち受けているという構成になっている。アトラクションは、火薬庫で銃の撃ち合いをする無謀な海賊に巻き込まれる場面で唐突に終了し、梅毒は一切登場しない。

困ったときのスムージー戦法

これは、冒険とイマジネーションの海・東京ディズニーシーにも同様のことが言える。

イスラーム建築を研究する深見奈緒子(2005)は、東京ディズニーシーのエリア、アラビアンコーストについて次のように述べる。

アラビアンコーストは、イスラーム教とまったく結びつかないけれど、イスラーム風細部を集成した建築である。そこには、他者から見たイスラーム的建築要素が入り混じり、歴史や地域を超えて、さまざまな要素が並列、陳列される。そして、ディズニーというアメリカの企業によって、日本の浦安の海に構築され、世界で唯一のディズニーシーの重要な一部となっている。

深見奈緒子『世界のイスラーム建築』

つまり、アメリカ人(またはアメリカ人的感覚を獲得した日本人)から見た漠然としたイスラーム建築をスムージーにし、しかもそこに「アラビア〜ン」と名前をつけてしまっているのが、ここアラビアンコーストなのである。

2001年の東京ディズニーシー開園時、「シンドバッド・セブンヴォヤッジ」というアトラクションが存在した。これは、『千夜一夜物語』の「シンドバッドの冒険」を下敷きにしており、唐沢寿明が吹き替えるシンドバッドがさまざまな冒険を経て財宝を手にし、引退生活を決め込んで話は終了する。
これが、2008年に「シンドバッド・ストーリーブック・ヴォヤッジ」へとリニューアルした。これは「シンドバッドの冒険」を真逆にした内容で、劇団四季俳優が吹き替えるシンドバッドが旅先でさまざまな友達を見つけ、「ついに見つけたよ宝物 宝石や黄金じゃなく 旅の中で巡り合った素晴らしい僕の友達」と歌い上げる。

同様の問題が発生しているのが、ロストリバーデルタだ。
中央アメリカのジャングルをテーマとし、マヤ文明やアステカ文明のモチーフを取り入れているが、パーク内で見られるのはこれらの文明を混ぜ合わせてスムージーにした文化。そのため、マヤ文明の専門家からは批判的な目で見られている。
エリアで最も大きな目玉アトラクション「インディ・ジョーンズ・アドベンチャー:クリスタルスカルの魔宮」についても言及されている。

ちなみに東京ディズニーシーのアトラクション「クリスタルスカルの魔宮」は、マヤ文明の神殿ピラミッドや石碑などをモチーフとしており、多くの日本人にとってまだ親近感の薄いマヤ文明の正確な理解を妨げている。
このような偏見に満ちた嘘の生産と消費は、マヤ系先住民の豊かな歴史・文化伝統に対する侮辱以外のなにものでもない。

青山和夫『マヤ文明を知る辞典』296ページ

実はこのアトラクションにはこの問題に対するディズニーなりのアンサーが用意されているわけだが、ガイドブックなどではほとんど紹介されない。

このようにディズニーパークは、複数の文化をごちゃまぜにして漠然と提示するスムージー戦法をよく好んで用いている。

二つの「ディズニー化」

こうした事実は、ディズニーという巨大コンテンツの誕生以来、常に議論されていた。実際、批評家たちは「ディズニフィケーション」(Disneyfication)という現象の存在を提唱している。
「ディズニフィケーション」は、「ある対象を表面的なもの、または単純すぎるとさえ言えるものに変容させることを意味している」という(ブライマン2008)。具体的には、ディズニー社が世界中のお伽話や物語、実在の歴史や事件を単純化し、それがディズニー製品であるとわかるようにパッケージ化してしまうことが問題視されている。

特に重要な問題になるのが、ディズニーランドの本命であるはずのアメリカの歴史についてだ。
ディズニーパークには「ホール・オブ・プレジデンツ」(大統領の殿堂)というアトラクションがある。このアトラクションは、大統領制をキーワードにアメリカという国の歴史を紐解くアトラクションだ。アトラクションの最後には、ディズニー独自の技術オーディオ・アニマトロニクス(音響オーディオに合わせて動くアニメーション機械エレクトロニクス)を用いて、歴代全大統領がステージ上に集合する壮観な場面がある。
しかし、本国の歴史家たちは、このアトラクションで語られる歴史があまりにも「おきまり」であり一面的だということを指摘している。
また、ディズニーがかつてワシントンD.C.に建設を計画していた“Disney's America”「ディズニーズ・アメリカ」というテーマパークは、結局実現することがなかった。ディズニー社の歴史を語る能力に信頼がなく、反対意見が続出したからだ。

「ディズニフィケーション」という表現の負のイメージを避けるため、新たに「ディズニゼーション」(Disneyization)という概念を提唱し直したのがアラン・ブライマン(2008)である。
「ディズニゼーション」は、マニュアル化された画一的なサービスに物語を通して多様性がもたらされる過程を、四つのフェーズで定義したもの。そのため、マクドナルドやコカ・コーラ等が推し進めてきた画一化の批判からは比較的逃れることができるとした一方で……彼の著書の最後には、「ディズニゼーション」に関わる問題点の一つとして「歴史と場所の歪曲」という項目が挙げられている。
つまり、「ディズニフィケーション」というかつての概念が持っていた特徴のうち、「なんでもディズニー流にパッケージ化してしまう」という側面にはある程度反駁しつつも、「物語を単純化してしまう」という点には歯止めが効かないと考えたのである。

ナカタ、オカダ、ヒロユキ、ディズニー

つまり、博物館とディズニーランドの間に横たわる大きな問題点の一つは、現代のYouTube業界に非常によく似ている。「アカデミアとエンターテイメント」「人文学とビジネス」の問題である。

中田敦彦や岡田斗司夫、そして西村ひろゆきといったインフルエンサーの言葉には、誤解を招く言葉や明らかな誤りが数多く含まれている。なぜなら、彼らの言葉は彼らの語るテーマについての「要約」であって「正解」ではないからだ。
「だいたいこういう理解をしておけばまあ差し支えないでしょう」というのと「これが正しい」の間には大きな壁がある──況や、専門家にとって、その大きさの顕著なことは言うまでもないだろう。

これが、ディズニーランドについても同じことが言えてしまう。ディズニーランドが語る物語は「真実」ではないにもかかわらず、「真実らしさ」という妖精の粉をまぶしてあるのである。だから厄介なのだ。
博物館が好きな人々、博物館を支持する人々にとってこれは由々しき事態であろう。穿った見方をすれば「騙そうとしている」ように見えるからだ。

また、初めの記事で示した、博物館とディズニーランドの両者を愛好する〈第四の勢力〉が頭を抱えるのは、この誰にも理解されないジレンマが原因である。
ディズニーテーマパークは、可能な限りのありとあらゆる手段を尽くして、物語の元になっている地域や文化を研究する。アトラクション「タワー・オブ・テラー」の主人公ハリソン・ハイタワー三世の外見のモデルといわれるジョー・ローデ氏は、アトラクションを作る際にとにかく綿密な調査を行なっていた。ディズニー社内を見れば、そういった人物は枚挙に暇がない。彼らは空想だけでディズニーパークを作っているわけではないのだ。
つまり、第四の勢力の人々にとって、ディズニーランドは「ニセモノだから」悪いのではない。「ニセモノを本物だと思い込むから」悪いのだという話になる。

ただし、中田敦彦や岡田斗司夫、ひろゆきとディズニーランドには決定的な違いがある。
この違いから、前段で示した「スムージー戦法」「二つのディズニー化」は、最悪の形で解決していると言えよう。
そしてこの違いこそ、博物館とディズニーランドの関係を考える上でもう一つの問題になる。

──ひろゆきの視聴者(の一部)が彼の言葉を盲信するのに対し、ディズニーランドを訪れるゲストは、そもそも物語に目を向けていないのである。

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杞憂、自由、苦悩【博物館とディズニーランド④】


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