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2022年1月 読書の記録

すでに2月も終わろうとしてますが、1月に読んだ本をふりかえります。

目録

  • 三体 Ⅲ(劉慈欣)

  • 千個の青(チョン・ソンラン)

  • すばらしい新世界(オルダス・ハクスリー)

  • グレート・ギャツビー(フィッツジェラルド)

  • 世界のすべての朝は(パスカル・キニャール)

  • ショウコの微笑(チェ・ウニョン)

  • 遠い朝の本たち(須賀敦子)

  • ワンダーボーイ(キム・ヨンス)

  • ペスト(カミュ) 

選ばれなかった選択肢を読む

昨年読んだ「100分de名著」の文章をたまに思い出す。

ディストピアなるものは、現実とはまるきり違う悪夢のような世界、と思われがちですが、じつはそうではありません。ディストピア小説は、私たちが暮らす現実社会の危うい面や暗黒面をちょっとだけ延長して、いまとほとんど変わらないけれど少し極端になった未来を描きます。それによって、私たちが住む社会だって見方を変えればこういうものなのですよ、と教えてくれます。(中略)
いまの「当たり前」は、ちょっと違った角度から見ればそのまんま地獄である、ということになるからです。このように、われわれの生きる現実を、ひょっとしたらこれは地獄かもしれない、という批判的視点から見る。

100分de名著「レイ・ブラッドベリ『華氏451度』」

SF、とくにディストピア小説と呼ばれる作品は、人間の空想力が生み出した突飛な物語ではなく、長い目で見れば現代の社会との地続きの話なのかもしれない。過去もしくは未来の誰かが違う選択をした(する)ことによって、そしてその選択が積み重なっていくことによって、世界はユートピアにも、ディストピアにもなりえる。

そういう視点でSFを読むと、物語のなかの奇抜な設定が妙に生々しく感じられることがあり、最近はその感覚を求めてSFを読んでいるような気がする。

中国発の宇宙SF『三体』。のめり込むように読んだ小説は久しぶりだった。人類どうなっちゃうのーという場面の連続で、とくにⅡ〈暗黒森林〉での異星人との戦闘(というかなんというか)のシーンは圧巻だった。どれほどがんばっても知性・戦力の両面で圧倒的に劣る地球人類が、最後に頼るものが先端技術でもなんでもなく、もっとも原始的なあるモノだったりするところもぐっときた。それから、遥かに進んだ文明を持つ三体人がその総力をもってしても人間の頭の中はのぞけなかった、ということにも。

異星人が堂々と攻めてくるという状況は幸い現実にはなっていないけれど、環境の変化や進みすぎたテクノロジーに人間が追いつけなくなると秩序は容易に失われるし、なぜかもっとも価値のないものを残そうと躍起になる人が大勢いるんだろうなと思う。そういう状況は決してパニック映画の中だけの話ではないということだと受け取った。

先日noteを読んでいて、次の記事を見つけた。「世界のリーダーはSFを読んでいる」とあるけれど、リーダーになることの優先順位がそこまで高くない人が読んでもとても面白い記事だと思う。

ここで挙がっているSF小説のうち、読んだことがあったのはテッド・チャンの『あなたの人生の物語』。そして1月に読んだばかりのオルダス・ハクスリー『すばらしい新世界』だ。

『すばらしい新世界』は古本屋でたまたま見つけて買ったもの。表紙の装丁もシンプルで潔く、訳もわかりやすいのでてっきり最近の作品なんだと思っていた。読み終わって奥付に1932年発刊と書いてあるのを見てびっくりした。90年前…?

たしかに、設定のいくつかは最近の人間が書いたにしては浅くて、せいぜい遺伝子操作とか空飛ぶ車レベルのもの。とはいえ物語が問うのは文明を成り立たせる技術の是非ではなかった。

人間がいる限り決して解消されない悩みとはなにか。あらゆる欲求が満たされ、誰にとっても住みやすいユートピアであるはずの未来が、ディストピアにしか感じられないという矛盾。そして未来の人類がこのディストピアを実現させない保証はない、ということだと思う。

人為的な遺伝子操作とカースト制度に支配された社会では孤独を感じる人はおらず、先端技術のおかげで老化や病気への恐れもない。ただ量産された下位カーストの命は軽んじられ、ほとんどの人はクスリを常用し、中枢メンバーによって真実から遠ざけられ、ふわふわした幻想の中で目的もなく生きている。

ディストピア小説によくある「中枢メンバーによる恐怖政治」的な側面は少ない。むしろ、この社会構造は多数派の市民自身の希望によって作られ、維持されている。そのことが善ではないと言うのは簡単だが、悪ではないとも言い切れないのはなぜか。

多少の不平等に目をつぶれるのは、自分のほうが優位な立場にあるから。というより、その優位性ほしさなのかも。そして遺伝子操作やカースト制度といった「偏った」方法以外で、この不平等を解消する術がないと、心のどこかで思ってるからなのかもしれない。

なにかのきっかけ(たった一つの手違いか、少数の人間の決断)があれば、数世代たたないうちにこの小説の世界は実現できてしまうかもしれない。あるいはまだ見えない、本当の意味でのユートピアも(そんなものが本当にあるのか謎だが)、同じくらいの確率でそこまできているのかもしれない。SFを読むことは、今まだ選ばれていない選択肢に目を向け、行先を思う手がかりをくれるように思う。

話がかわるが、上の記事でも挙がっているアーシュラ・ル=グウィン。「ゲド戦記」の作者だが、先日図書館で見つけた最後のエッセイ『暇なんてないわ 大切なことを考えるのに忙しくて』がたいへんよくて、しみじみと読んでいる。『風の十二方位』も読みたい。

というわけで、SF沼にはまだしばらく浸かっていることになりそうです。

「新しい韓国の文学」より

このシリーズは、選書も翻訳も装丁も好きで以前からチェックしている。うれしいことに最寄りの図書館に数冊置いてあるのを最近発見した。

読書はそれ自体、孤独な行為だけど、『ワンダーボーイ』ほど読んでいて孤独を感じた本はなかったかもしれない。

交通事故に遭い、目の前で父を失った少年。それを機に人の心の声が聞こえるようになり、目をつけたマスコミや軍にその才能を利用されるようになる。脳内は人の声であふれるほどなのに、どんどん孤立感を深めていく様子が痛々しい。朝鮮戦争の傷痕が癒えないうちから光州の弾圧事件が起こったりして、穏やかに生きることも叶わない。

社会の受けたダメージが個人の生活に長く影を落とす様子が、韓国の小説ではよく描かれているように思う。きっかけは人為的なものもあれば天災に近いものもあるけれど、共通しているのは、理不尽な出来事を消化する長いプロセスを決して言外に置かず、無言の了解を得ようともしないところだと思う。正面から向き合うという言葉が正しい意味を持つ、そういう作品が多い印象がある。

『ショウコの微笑』の帯に書かれた温又柔さんのコメントもよかった。

心に比べると言葉は不完全だ。
それでも心は言葉を必要としてしまう。

同じ「韓国文学」シリーズにある『ショウコの微笑』は、チェ・ウニョンによる短編集。

自分の中で、長いこと「短編より長編のほうが格上」という謎の意識があり、そのため短編集を買うこと自体がめずらしかったのだが、この一冊でその思い込みが見事にくつがえされた。

作家がかける相対的な執筆時間、作中に張り巡らせる伏線の多さなどは当然長編のほうが多くなる傾向はあるだろうが、読者として受け取るものの大きさや、究極には「手元に残しておきたいか」という選別での優位性に、そこまで大きな差はなかったな、という気づきを得られた本。

全編を通して感じたのは「忘却」が副旋律のように流れているということだった。確かで生々しい手ざわりのあった物ごとや感情が、意志に反して消えていくこと、あるいはそれらを意志を持って消していくという行為が、なぜ他人の自分をこんなに寂しい気持ちにさせるんだろうと思う。

だからなのか、「忘れたくない」という思いのためだけに残された文章や、撮られた写真などを見ると、どんなときでも心を根こそぎ持っていかれるような気持ちになる。

最近見つけた写真集に、橋本貴雄さんの「風をこぐ」というものがある。偶然出会った雑種犬「フウ」との生活を記録した作品。

福岡や大阪、ヨーロッパの街を背景に、フウと見たものやフウがたたずむ姿が写っている。フウは交通事故で下半身が付随となっていて、写真の中の姿も正直不格好だ。しかしレンズ越しのフウは生き生きして、威厳すらまとっているように見える。じっと何かを見つめる目が黒いこと。

写真集の最後には、フウが去ったあと、思い出の場所で撮られた写真が収められている。フウを当たり前に見ていた目で眺めると、その足りなさが強烈に感じられた。そういう「誰かがいた場所」が地球上のあらゆる地点にあるのだと思う。

須賀敦子『遠い朝の本たち』。
遠い朝、というのは子ども時代のことを指してるようだ。幼少期から思春期までの日常と、そこにあった数々の本との出会いについてのエッセイ。

彼女の作品を読み始めたのは去年だった。ゆっくり本を読みたくて箱根本箱に初めて行き、1万冊を超えるという蔵書がならぶ本棚で、ふと名前を目にしたのがきっかけだった。先日久しぶりに再訪し、同じように彼女の本を見つけて、ああそうだったと思い出した。本に呼ばれるとはこういうことか。

読み手をぐいぐいと巻き込んでいくような出来事は起こらないけれど、どんな小さな物ごとにも気づき、意味を見出していく幼い観察者の目を得て、数十年前を生きた筆者の世界を追体験するかのよう。彼女が手にとった本は、中にはすでにこの世にないものもあるだろうが、猛スピードで移ろっていく街や人と比べれば、モノとしての本質を保ち続けているのかもしれない。


そういえば今年のお正月、2年ぶりくらいに静岡にいる祖母に会った。デジタルに疎い祖母とはここ数年ずっと手紙でやりとりをしていて、最近どんな本を読んでいるかもその中で報告している。以前、私が須賀敦子の作品が好きだと話したら、この作家の全集が祖母の家にあることがわかったので、今回の帰省でまとめて譲ってもらった。

ながいこと本棚に置かれていた全集にはそこそこ埃や汚れがついていたし、なんなら数巻迷子になってもいるが、読書の趣味が似ている祖母から譲り受けた本が自分の部屋の枕元に積んであるのを見るとなぜか安心する。大事に読もうと思う。

『ペスト』

カミュを前回読んだのは大学生の頃、「異邦人」を仏語で読む授業のときだった。原文だったからか、なんだか堅苦しくてスッと入ってこない文章という印象が強かった。主人公の行動や考えてることもちょっとよくわからなかったし、以降カミュの他の作品に対してもなんとなく遠巻きにしてしまうことが多かった。

今回『ペスト』を手に取ったのは、図書館に行く度に眺めている光文社古典新訳文庫の棚にたまたま置いてあったから。

読み始めて数ページで「あれ?」と思った。表現が明快かつスピード感もあり、とても読みやすかった。なんでこれまで無意識に避けてたんだろう。

物語は、医師として疫病に対峙しつづけるリューのほか、数名の視点をとらえながら進んでいく。ストーリーに大きな起伏やどんでん返しはないが、彼らの目からみる市民の思考、行動、それらが少しずつ、しかし刻々と変化していく様子が描かれ、息もつかせない。

解説にもあるとおりこれは抽象的な天災を被った人間の群像劇であり、今回のパンデミックがたとえ収束したとしても、なにか幸せでない出来事に直面するたびに自分はこの小説を思い出すだろうと思った。

ヒロイズムの地位とは、幸福への寛大な要求の次に来るものであって、けっしてそれに先立つものではないのだ。この見解はまた、本記録にもそれにふさわしい性格をあたえることになるはずだ。その性格とは、善良な感情によって、すなわち、露骨に邪悪でもなく、見せ物のように卑しく煽情的でもない感情によって記される報告のそれでなければならない。

特筆すべきことだが、ペストは彼ら全員から、愛の能力と、友情の能力さえも奪ってしまったのだ。なぜなら、愛はいくらかの未来への期待を必要とするものだからだ。しかし、私たちにはもはやその瞬間その瞬間しか存在していなかった。

パンデミックが始まった頃にTwitterで知った漫画、「リウーを待ちながら」のタイトルの「リウー」こそが、この『ペスト』の主人公であったことを今さら知る。

小説と並行してこちらの漫画も読んでみたが、さまざまな場面で「ペスト」の投影があり、現代×日本という状況(SNSを媒介に広がる不信、おかしな方向に成長していく「正義」など)をふまえた描写もよかった。今回のパンデミックより前に発表されていたことに驚く。



もう2月も終わり(はやい!)。
毎月、読書記録を公開すると解放感がかなりあるけれど、月がかわればまたそれもリセットされるわけで、今回に関してはその解放感を味わえるのがあと5日ぐらいしかないことにぐぬぬとなる。まあいいか。

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