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島の喫茶店で、海を見ながら感じたこと

地元・岡山県は「長島」を訪れた。

知り合いから「長島に海が見える喫茶店がる」と聞いて、実際に足を運んでみた。

生まれ育った岡山県ではあるが、実際に来たのは初めてだった。

住んでいる岡山市から車で1時間。幹線道路を降りて曲がりくねった田舎道をしばらく走ると、海を跨ぐ橋にさしかかる。

ちょうど牡蠣のシーズン真っただ中で、「牡蠣筏」の上で漁師さんが作業をしていた。

見渡す限り海が広がる太平洋とはちがい、瀬戸内海は四国が見えて、その間に大小の島々が点在している。

長島もその一つの小さな島だ。

橋をわたり、しばらく海沿いの道を走る。

お目当ての喫茶店「さざなみハウス」が見えてきた。

さざなみハウスは2019年に出来た店で、島の役場のような建物内にある。

元々は「福祉課」の事務所があった空間を、喫茶店として再利用しており、傍らに島の案内所がある。

島の住人のみならず、島外からも多くの人が足を運んでいる。

くびれた入り江に店はあり、眼前には瀬戸内海が広がる。

窓の下、手が届きそうなところまで波が押し寄せ、その音がささやかに店内に響いていた。

吹き込んでくる風が肌にあたって、ほのかに漂う潮の香り。

「さざなみ」の名前のように、穏やかな雰囲気に満ちている店だ。

店の雰囲気とは裏腹に、長島は壮絶な歴史がある。

1930年、日本で最初のハンセン病の国立療養所「長島愛生園」が出来た。

ハンセン病はかつて「らい病」とも呼ばれた感染症。「らい菌」が神経の障害を引き起こし、場合によっては手足や皮膚の変形、失明などの後遺症を残す。

ハンセン病は古今東西で恐れられ、罹患した人は社会から疎外されてきた。

日本では明治以降、患者の強制隔離が進められ、長島は日本各地からハンセン病患者が住まう場所となった。

戦後には、外国で治療薬が完成していたが、社会で感染症に対する差別意識や偏見もあり、なかなか法整備には至らなかった。

長島の人たちは人間らしく生きたいと、声をあげ続けてきた。島に架かる「邑久長島大橋」はその象徴だ。

1988年に完成した橋は、構想から完成まで20年ちかく要した一大プロジェクトで、「人間回復の橋」と言われている。

1996年、国が正式にハンセン病政策の誤ちを認め、強制隔離は終了した。

現在も長島愛生園はあり、ハンセン病の後遺症に苦しむ人たちが生活している。

さざなみハウスはその敷地内にある。

邑久長島大橋が島をつなぐ通路だとするならば、さざなみハウスは人々をつなぎ合わせる場所だ。

島に住む人と来た人、過去と現在、未来をつなぐ場所。



一旦店を出て、島を歩いてみた。

長島は国有地であり、島そのものが療養所となっている。

山沿いの道を歩いていると、入所者と思しき初老の男性とすれ違い、軽く会釈した。

あとは愛生園の職員や医療関係者の方を見かけるだけで、出歩いている人はあまりいない。

落ち葉を踏み鳴らし、草をかき分けて進む。

山の中、高い木々に覆われた場所を歩いていても、遠くからかすかに波音が聞こえる。

視線の先で何やらガサガサと音がした。やがて野性のシカが6、7匹、群れを成して野山を駆けていく。

まるでNHKの『ダーウィンが来た』のワンシーンのようだった。

山頂にある「恵の鐘」。

開園以降、入所者が増えるにつれて愛生園の生活環境は劣悪になった。

入所者たちは「療養所」でありながら労働し、入所者が入所者の世話をする状況さえあった。

結婚が認められていたものの、男性器の断種手術が条件づけられ、妊娠すると堕胎、胎児はホルマリン漬けにして保管された。

あまりにも非人間的な仕打ちに、入所者たちの怒りが爆発した。

1936年にハンガーストライキ「長島事件」が発生。暴徒と化した入所者たちが鐘を占拠して乱打しつづけ、警察が出動する事態となった。

島の片隅に収容桟橋と「回春寮」という収容所が遺されている。

橋が無かった時代、患者を運ぶ船が桟橋に到着すると、そのまま回春寮に連れて行かれた。

患者たちは殺菌液入りの浴槽で全身を消毒させられ、一週間ほど過ごす。

島での暮らしに必要のない物品は押収されたうえで、現金は園内でしか使えない通貨に替えられた。

ここで「患者」から「入所者」になったのだ。

島のあちこちから、ここで生きてきた人々の息遣いを感じる。

道沿いの記念碑。

蔦に覆われた歴史館。

十字架や鳥居をそなえた祈りの場。

自ら望んでハンセン病になった人などいない。

なのに感染してしまい、社会から隔絶された人々。罹患したことを「前世の悪業」「天刑」と因果関係で片づけられ、故郷も家族も友人も失った人々。

国の謝罪を受けて尊厳を回復しても、「税金で養ってもらっているくせに」「権利ばかり主張するな」と誹謗中傷にさらされる人々。

感染症より恐ろしいのは、私たち人間なのかもしれない。

私は岡山県で生まれ、大学進学で上京するまで20年ちかく暮らした。

長島のことをまったく知らなかったわけではない。歴史の授業で習ったが、教科書程度の知識しか持っていなかった。

でも、それで知った気になっていた。

今回初めて島で生きてきた人たちの物語に触れて、知っていたつもりになっていた自分を恥じた。

この島で生きてきた人たちの目に、穏やかな瀬戸内の海はどう映っていたのだろう。

島からの眺めと、この島にしかない物語が重なったとき、自分が享受している「あたりまえな生活」をうしろめたく感じてしまった。

「ここに来た人は、みんな自分の感情に素直になるんです」

さざなみハウスの店主、鑓屋翔子さん。

鑓屋さんは大阪市生まれ。小学生の時に「田舎で暮らしたい」という両親の意向で岡山県美咲町に移住した。

大学卒業後、「自分の店を持ちたい」と思うようになり、ふとしたご縁で店を任されるに至った。

ハンセン病のことも、長島のことも、何も知らない状態でのスタートだった。

店主になってからの2年間で、島の人と思い出をたくさん共有されている。

「ハンセン病患者」への見方も変化した。

「ハンセン病患者、というと『かわいそうな人』と思っていました。でも、店に来られる(長島愛生園の)入所者の方の話を聞くと、みんな普通の人間なんだなあって」

職員の目を盗んでこっそり酒盛りをしていた人。

同じ患者や看護婦さんに一目惚れして猛アタックし続けた人、そのまま男女の仲になった人たち。

生涯をかけて絵画や文芸で表現しつづけた人。

病という不条理を抱え、島の閉鎖的な空間にいたからこそ、抗うように人間の生命力が燃えてのかもしれない。


「ここは毎朝、今日はお客さんが来るんだろうか…と思うくらいに静かな小島だけど、そこに残る記憶、感覚はとても濃密です」


記憶。感覚。



長島は「知る」ための場所でもあるが、それ以上に「感じる」ための場所だと気が付いた。

島に足を踏み入れて感じる内面の揺れ。

まるで波のように押し寄せる感情の変化とどう向き合うのか。それを島が問うているのだ。

ハンセン病のことをもっと多くの人に知らせたい。長島にいると、そんな使命感も湧いてくる。

ただ、知ってもらうだけだと、そこから引き出される結論は「人権を守ろう」「自由は大切だ」「差別はよくない」といった決まり文句になってしまう気がした。

法務省によると、「人権」とは「すべての人々」が「幸福を追求する権利」としている。私たちはあたりまえのように、その言葉を使っている。

しかし、誰かの不幸せのうえに幸せが成り立っている状態や、あるいは不幸せな少数派の存在を無視して最大多数の幸福がある場合もある。

力を持った強い多数派が、持たざる弱い少数派を都合のいいように利用している光景は、よその国でも、私たちの日常でも見られる。

つい最近、未曾有の感染症が日本で確認され始めた頃、一部の感染した人たちは差別的な仕打ちを受けた。人間は、ハンセン病で起きた同じ歴史を繰り返している。

人間は言葉や知識だけで自分自身の行動を変えるほど、賢明ではないのかもしれない。

言葉は使い古されていくにつれて魂を失い、表層だけが宙を漂う。

もう一度、言葉に力を宿すには、それが生み出された感覚が必要であり、その感覚を人間に呼び覚ます場が必要なのではないか。


ゆるして下さい らいの人よ

浅く、かろく、生の海の面に浮かびただよい

そこはかとなく 神だの霊魂だのと

きこえのよいことばをあやつる私たちを

神谷美恵子「らいの人に」より


島の人たちが見つめていた海を、同じように見つめてみた。

いったん言葉を波に流しておいて、沈黙のなかで海を見つめる。そして島で生きてきた人たちを思う。

島の人たちを憐れむわけでもなく、自分たちの満足な暮らしをうしろめたく思うわけでもない。

浮かんでくるのは、この混沌とした世界で、不完全な存在として生きている、一人の人間である感覚だった。

私たちは時に過ちを犯すこともあれば、自分たちではどうしようもできない苦しみを味わうことだってある。

だからこそ、私たちは他者を必要とし、その苦しみを共にする感性を本来はそなえているのではないだろうか。

その感性の上に、他者と交わすための言葉と言葉で構成された知識が成立しているのだと思う。

長島は、来た人の感情を揺さぶり、自己の内面との対話を迫る。

島の人たちは、自らの運命や大きな力に抗ってきた。その熱気の残り香が、今も静かに漂っている。

海が見える喫茶店は、世界中にたくさんあるだろう。

だけど、さざなみハウスには、長島にしかない物語があり、ここでしか味わえない感覚がある。

この小さい島の小さな喫茶店に、これからも灯をともし続けること。

それが、大きな変化をこの世界にもたらすのかもしれない。

そんなことを思いながら、島を後にした。

血のように真っ赤な夕焼け空と、傷んだあざのように薄紫に染まる海を見ながら橋を渡る。

この島に生きてきた人たちが、手をふってくれている気がした。







<参考文献>

山陽新聞社編『語り継ぐハンセン病―瀬戸内3園から』山陽新聞社、2017年

神谷美恵子『人間をみつめて』みすず書房、2004年

松岡弘之『ハンセン病療養所と自治の歴史』みすず書房、2020年

光田健輔『愛生園日記』毎日新聞社、1958年





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