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小を流すにはもてあますし大を流すにはものたりない。

どうでもいいけれど38歳になる。
すっかり中年である。

小を流すにはもてあますし大を流すにはものたりない。「真ん中」の「中」といえば聞こえはいいけれど「中途半端」の「中」ともいえる。

そんな若くもなければ熟れてもいない年代ながら、仕事では企業や商品・サービスのコンセプトづくりなどで中心的な役割を担う機会も増えてきた。それはとても喜ばしい。でも一方でなんだか煮えきらない匂いが身体中から立ちこめてくるのはなぜだろう。

そもそも真ん中というものはなにかしらの中途半端さを有しているものなのかもしれない。たしかに中心「的」という言葉からしても胡散くさい。限りなく中心ではないのだから。

先日も「ますますコピーライターとして働きざかりのご活躍のようですばらしいですね」などと社交辞令を言われたけれど、中年なんて生きものはSNSに聞こえのいいことしか書かないのだからあたりまえである。

いつからそんなドヤドヤしなければいけなくなってしまったのだろう。そんな疑問を感じながらもドヤドヤとシェアしてしまう中年たちのボディは確実に限界へと近づいている。実際にはチャットの返信で使う絵文字をどれにすべきかで悩んでいるような脆い存在なのだから。

自分より若い世代の担当者の方々からナチュラルに送られてくる生き生きとした絵文字の数々。それに対して「笑顔」の絵文字を安易に返せば気味悪がられるかもしれない。「了解しました」と敬礼したり「ありがとうございます」と平伏するのもとっつきやすさを演じているようでわざとらしい。「ガッツポーズ」なんて元気よく決めた日には詐欺だろう。そんな若々しいパワーがいったいどこにあるというのだ。ましてやハートやらウインクなどを使えば訴えられてしまうにちがいない。

結局、どの絵文字も選べないまま限りある人生の残り時間が過ぎてゆく。だからといってなにもつけずに返すのもぶっきらぼうすぎるのではないか。ただでさえブスッとむくんだ顔をしているのだから。

そこで頭を抱えながら使っているのが「◯」である。絵文字ではなく記号という妥協の選択。しかも当初は「◎」を使っていたのだけれど、丸を二重にしている時点でなにかしらの作為がいやらしく透けてしまうかもしれないと悩みぬいた果ての「◯」なのである。「よろしくお願いします◯」などと末尾に「◯」ばかり並んだなんとも空虚なメッセージを受けとる相手の気持ちもすこしは考えてみてほしい。

どうせならなんの意味もない絵文字があったらいいのに。なんの感情もあらわさない「無意味な絵文字」が。まあ、そんなどうでもいいことを考えるところがもはや中年なのだろう。でも、そんなどうでもいいことを考えるのが中年なのだとしたら。それはそれで悪くない気もしてきた。

なんだ、この中途半端な話は。

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