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生きたInformation Architecture

昨日は、World IA Day 2018 Tokyoでの「曖昧さと不確実性」というタイトルでの講演だった。はじめて逐次通訳が入る形での講演だったが、話の仕方や時間コントロールがむずかしかった。

イベント自体のテーマが「IAの倫理と哲学」だったので、「情報はそもそも曖昧で不確実なものである」ことを伝えたいとして話をした。
背景としては「常識だと思っていたものが大きく変化する時代」において、「どうデザインするか? 何をデザインするか? 以上に、何故デザインをするのか?が問われている」と考えていることを話した。それゆえ、既存の枠組みから情報をいったん解放し、「変身=隠喩」的に異なるもの同士をつなぎあわせ、新しい思考を生みだしていくことが必要であり、「隠喩を生むノイズ」をどうプロジェクトに取り入れ、「共創の場で異なる視点を取り込む」ような仕掛けを設計しておくかを大事にしているということを伝えた。

良くも悪くも人間はInformation Architectureの中にいる

僕の講演の前に、チェルシー・ホステターさんがLGBTQの観点から、既存の社会の情報の枠組みの中の問題点を指摘していた。例えば、トイレの表示やECの購入フォームでの性別のラジオボタンなど、トランスジェンダーの人などには不適切なタクソノミーが用いられているケースがそれだ。

"分かることは分けること"だし、それがデザインの方法の基礎的な部分であるのは間違いないが、現実が、個々の人間が、本当にトイレの表示や性別のラジオボタンのように分かれているかというとまったくそんなことはない。しかも、そんな風に、分かるように分けたことで悲しく寂しい思いをする人たちもいる。もう1人の講演者である九州大学の古賀先生はそれを「影」と読んでいたが、この影がいたるところで表面化してきたのが、このグローバルでデジタルな現代の情報社会なのだろう。

よく引用するエルネスト・グラッシの「人間は〈世界未決〉である」という前提がある以上、僕らは少なからず影を引き受けつつ、世界をデザインによって分け続けながら生きることは避けられない。グラッシが言うように、「動物は自分の環境に生きる」のに対して、人間はデフォルトでは「世界を持たない」のだから人間は世界そのものの意味付けとともに「自らを〈形成〉しなければならない」。良くも悪くも人間はInformation Architectureの中でしか生きられない。

ミメーシスからポイエーシスへの移行の時代

だからこそ、どんなInformation Architectureの中で生きるかは、時代ごとに問われるべき、倫理なのだと思う。Skype越しの特別講演という形で、ルチアーノ・フロリディさんはデジタル時代のカット&ペーストによって従来の枠組みに変化が生まれていることを指摘し、ミメーシスからポイエーシスへと、というデザインの重要性が増す時代の変化について語った。このカット&ペーストの際に必要なのが、僕が話した変身=隠喩的な力だ。
それは僕が、ルネサンスの自然の模倣からツッカーリが明らかにしたマニエリスム期のディセーニョ・インテルノという内面のイメージの外への投射という移行したデザインの誕生の時代に重なる。

そうであるがゆえ、そこで問われているのは、情報をどう扱うかという問題なのだと思う。
グローバルレベルかつ個々人というローカルレベルという、マクロとミクロの両方の視点が求められる分類学や情報建築の再考作業という哲学的な面も含むデザインの問題だ。

認識における「図と地」

僕は講演のなかで、ゲーテのゲシュタルトについて引用したが、ゲーテがそれを語った「植物形態論」という著作は、まさにリンネ的な分類学にある静的に植物を分けてしまうことへの警鐘の意味があった。植物のみならず、生命は常に変化し続けるのに、何故、静的な枠組みの中に分類することができるのだろう?と。

ゲーテが用いたゲシュタルトという言葉は、形態という静的な意味も持ちつつ、造形というまさに変化に視点を置いた動的な意味ももつ言葉である。
つまり、そのゲシュタルトは確実ではなく、明瞭でもない。不確実で曖昧なところをもつがゆえに、生の現実--自然や個々人のありよう--をそのまま包みこめる寛容さをもつ。

しかし、そもそも、何故、寛容さのない形でしか、分かりやすくならないのだろうか? その答えも講演の中や、パネルディスカッションの中で示したつもりだ。視覚偏重による「図と地」の問題が大きいと僕は考えている。

マーシャル・マクルーハンは息子エリック・マクルーハンとの共著であり、遺作となった『メディアの法則』でこう言っている。

われわれの視覚の第一の機能は、図をその地の上に孤立させることである。これは視覚だけがもつ希有な特徴であることが文化の痕跡のなかにも見られる。視覚以外のどんな感覚も、高鮮鋭状態、すなわち強く作用するよう強いられた場合において、図を孤立させ切り離すことによって地を抑圧するというようなことはできないのである。

講演中に、触覚的なデザイン(ハプティックデザイン)の例なども出しつつ、話したが、触覚的な認知でも、聴覚的な認知でも、視覚で物事を認識する場合の、文字とそれが書かれた白地の背景、人々の動く様とその背景としての環境のような、図と地のような認識の対象と明確に意識するものと認識はしているが無意識のほうへ押しやり、気にしないものというような区別はしづらい。人の話を聞こうとしても、まわりがうるさければ、僕らはそれらの音を図と地のように分類して、人の声の部分だけを聞くということはできない。

図と地の再構築の困難

けれど、視覚においては、それが可能だ。問題はいったん図と地の切り分けを行なってしまうと、その後にその関係を再考するのは難しい。

図と地が相互に作用しあっているときには両者は動的な関係にあり、絶え間なく相手を変容させている。従って、図の静止は図を地から切り離すことによってのみ可能となり、また切り離されたことの避けがたい結果である。

有名なアヒルとウサギの絵で、ウサギが見えているときはアヒルが見えず、アヒルを見るときはウサギが消えるように、多義的な意味はどちらか片方ずつしか認識できない。それが図と地の関係をもつからだが、このウサギとアヒルのように、両方の可能性が最初に与えられていれば、図と地の切り替えも可能になる。だが、LGBTQの問題のように、可能な認識のパターンが事前に与えられないとき、あるいは個々人様々なケースが違ってパターンなど与えようがない場合、見えていない「地」から認識可能「図」を見いだすことはかなり難しい。

おそらく、この問題を視覚偏重な状態のまま、解決するのは難しいのだろう。しかも、その視覚偏重の地の在り方は、文字が社会に馴染みはじめたギリシア哲学の時代からはじまっているのだから、哲学を超えた領域での思考のアップデートが必要だと思っている。

それには文字以前のホメロス的な詩のように、視覚的な言葉ではない世界との接し方を参照する必要があると思っている。アボロンやオルフェウスが詩を竪琴による音楽とともにうたったように、五感から視覚だけを切り離さない形のInformation Architectureについて考えるべきなのではないだろうか。

そして、それはアーキテクチャという言葉が響かせる静的なイメージを捨てた、動的で、それゆえに曖昧で不確実な性質をもった生きたアーキテクチャになるのではないか?という気がしている。
実は、それはかつてライプニッツが夢見た生きた博物館のアップデート版なのかもしれないが。

#デザイン #IA #哲学 #倫理 #LGBTQ

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