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はたしてセーヌのほとりに立ったとき、どんな顔をするのだろう?

最初に訪れたのは2013年。
ちょうど850周年の記念の年で、たくさんの人が集まっていたので、長蛇の列に並んで入るまでに時間がかかったのを覚えている。

でも、はじめてだったこともあって、ファサードの前で彫刻をみたり、扉の金属細工の文様をみるのも楽しかった。

その後も2度ほど中にも入ったし、外から眺めるだけなら、その年から毎年お見かけくらいはした。昨年がすこし遠くから一部だけしか見られなかったから、まさかあれが最後だとは思わなかった。

でも、印象に残っているのは、やっぱり一番最初に中に入ったときの感動だ。

ひとがたくさんいたのにもかかわらず、なんてクリーンな空間なんだろうって思った。
その後もほかのいろんなカテドラルを見たけど、ランスのそれも、ストラスブールも、ルーアンのも、メッスやアルビの大聖堂も、そして、ケルンやルクセンブルクのノートルダムも見たが、一番気品を感じたのが、パリのノートルダムだった。

静けさがあった。そして、ひんやりと涼しい空気があった。
ステンドグラスから入る陽の光が透明感に溢れていた。

ぐるりとまわって外観も堪能した。
いまはなき尖塔が複数のフライング・バットレスのあいだから見えた。

正面のファサードも好きだが、後ろの公園側から見る大聖堂が美しいと思っていた。

この下は2年目、2014年のときの写真。
1年目より晴れた空に大聖堂の姿が映える。

正面からの姿はそれほど変わらないのかもしれないけど、この景色はもう見られないのかと思うと、心が落ち着かなくなる。

こんなステンドグラスももう見られないのだろうか。

今年はパリにいる時間が長めなので、ぜひまた行こうと思っていたので、残念でならない。

今日は朝起きてニュースを聞いてから、ずっと気持ちが落ち着かなかったし、気が抜けると悲しい気持ちになった。朝食を食べながら、よくわからないため息がでた。

正直、誰かが亡くなったとか、他の大事な何かが失われても、あんまりこういう気持ちにならない方なので、自分でも今日の出来事への自分の心の動きに戸惑ってる面もある。実際、こうしたことを時事的に書くことなんて、ほとんどないのだけど、今日のことは何か書いておかないといけない気がした。かといって何一つとして、気の利いたことは書けないのだけれど。

この深い愛着の正体は何だろう?と不思議だが、何かすごいものを失ってしまったような気がする。今年セーヌの川のほとりに立ったとき、はたして自分はどんな顔をするのだろう?

多くの人々が今日はそう感じているのだろう。日本人で数度しか、その姿を見ていないし、中に入ったことがない僕ですら、この喪失感なのだから、フランス人やパリに暮らす人たちの気持ちは想像もつかない。

856年のうち、僕がともにいたのがたった6年でしかなかったのかと思うと言葉にならない気持ちがわいてくる。とはいえ、その6年、いや、そのうちの旅行でパリで過ごしたほんの数日間なのだけど、それが妙に僕の記憶に残る時間だからこそ、こんな気持ちになるのだろう。

ずっと終わることのないと思っていた時間の終わりというのは、唐突すぎてまったく消化できない異物のようなものとして、心のなかにとり置かれるものなんだなといまは感じている。

なくならないと思ってたものが今朝なくなった。

#エッセイ #コラム #パリ #ノートルダム #大聖堂 #火事 #旅 #旅行 #火災

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