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自然対人工の単純でない構図

自然と人間。ジョルジュ・バタイユが人間を自然を否定する動物だと言っていることは昨日書いた。
そして、いわゆる祝祭が、動物であることを否定した人間が、動物であったことを確認するかのような機能を持っていたことを紹介した。

ロザリー・L・コリーは『シェイクスピアの生ける芸術』で、シェイクスピアが書いた牧歌形式の演劇をいくつか紹介しているが、この牧歌型の劇の形式こそ、祝祭による自然、動物への一時的回帰を思わせる劇の型を持っているという点で、それ以降、祝祭というものが社会からすこしずつ排除されていくことになる最後の時代を生きたシェイクスピアが繰り返しその形式を使ったことは大きな意味を持っているように思う。

コリーはシェイクスピアの牧歌型の劇のひとつ、『お気に召すまま』を通じて、標準的な牧歌形式がどのような型を持つかを次のように紹介している。

このロマンティック・コメディの大枠の構造は、まさに標準的な牧歌劇の型--追放や出奔の後、自然界で休息=再創造(リクリエーション)としての滞在をし、そしてついには、流謫の地から「本来の住処へと」帰還する、それも田園で同胞(kind)と情(kindness)に触れることで道徳的な力を強められて帰還するという型--を踏まえている。

この自然界での休息=再創造こそ、祝祭での自然への回帰にあたる。その期間を経て、主人公は元の場所へと戻ってくる。しかも「道徳的な力を強められて」。自然に触れることで、より一層、人間になるのだ、と言える。

混淆の様式

コリーによれば、この『お気に召すまま』のほかにも、シェイクスピアはいくつも牧歌形式の演劇作品を書いている。『冬物語』がそうだし、『リア王』や『テンペスト』など、およそ牧歌的には見えない作品も、たしかに指摘されると自然界への逃走を経ての回帰という牧歌の形式を踏襲している。

コリーは、牧歌様式は混淆的な形式だという。喜劇と悲劇の混淆であり、音楽や踊り、視覚芸術など、文学外の芸術に由来する牧歌的間奏をもつことでも混淆的な様式だ、と。
「牧歌の柔軟でほとんど無尽蔵な諸形式は、技と想像力に膨大な機会を提供した」と書いていて、それゆえに、あらゆる形式を自在に操りオリジナルな形式を創造することに長けたシェイクスピアが牧歌劇を得意としたのは当然だと言っている。

また、牧歌という劇には、まさに自然と人工の混淆があり、それゆえ両者の対立が明らかになる場面も少なくない。

牧歌はひとつの作品のなかに、「模倣(イミテーション)」と「創意(インヴェンション)」を、芸術(アート)と人工(アーティフィス)を、技巧のなさ(あートレス)と技巧の豊かさ(アートフル)を混淆する機会を与え、かつ促し--そうした混淆物をめぐる議論を生じさせた。

牧歌はまた擬似自然的なものと人工のものの混淆であり、擬似自然と人間自身の混淆としての祝祭の形式を模倣し創造しているのだとも言える。

自然のみならず超自然の世界も支配する魔術師プロスペローが主人公の『テンペスト』が典型的なように、牧歌における自然はあらかじめ人間の視点で加工されたものだと言える。人間の手に負えない予測不可能で荒ぶる自然というよりも、獣性は残しつつも飼いならされた観もある擬似的自然が牧歌劇の自然かもしれない。
その意味でも、それは祝祭的だ。

自然対人工の構図が絡みあう

自然対人工という観点で、コリーは『冬物語』中でのハーマイオニの彫像の場面に注目する。

ありし日の妻ハーマイオニを偲ぶ記念碑として固定化された像に、シチリア王レオンティーズは生身の女性であるかのように接する。自身の彫刻した理想の女性の像を愛したギリシャ神話のピュグマリオンを思い起こさせる、この場面は、まさに自然対人工という問題を引き起こす。

だが、この劇のプロットはみずからその問題を的外れなものに変えてしまう。
元より彫像に変えられていたハーマイオニが許しを得て、生身の身体に戻るからだ。生身の女性を生身の女性のように扱ったレオンティーズはもはや普通の男性ということになる。

「虚構のなかであるからこそ、劇中であるからこそ、彫像が生身の女性になることも、生身の女性が彫像になることもできる」とコリーはいう。まあ、その通りだろう。けれど、「この芸術上の問題にとって、この劇のモードは重要である」とコリーは着目する。

牧歌の主題系のうちで、自然と人工の相対的価値を吟味することは、牧歌というモードが命じることのひとつだからだ。『冬の夜ばなし』において、自然と人工の関係は、逆さまにされると同時に再肯定される。というのも、この劇は、その独特のありようを、女性が芸術作品のふりをすることも芸術作品になることも可能にするような牧歌の劇的慣習の寛大さに負っているからである。人工=芸術が生に変わるという仕掛けによって、レオンティーズのシチリアは人工と自然のすべての象徴的恩恵に与ることをふたたび許され、劇をつうじてさかんに問題視され修正を施されてきた牧歌は、その本来の住処(シチリア)を取り戻す。

元より自然と人工が詩人の技により混淆される牧歌劇とはいえ、この劇においては、さらに手の込んだ混淆が仕掛けられ、自然と人工の位置は逆転され、混乱へと導かれている。自然と人工はもつれあって、どこからどこまでが自然で、人工なのかという判断を見失う。

このあたりはテクノロジーの微小化と偏在性により、自然と人工が複雑な絡みあいを見せる現代の社会の環境にもある意味似ていたりもする。

自然も、人工も、ともに見かけどおりではない

『冬物語』のこのハーマイオニーの彫像が生身の人間に変わることについて「人工が人工でないものになるこの劇において、人工は見かけどおりのものではない」とコリーはいう。そして、同時に「
寓意画のようでもあり謎めいてもいるその結末に見ることができるように、生もまた、見かけどおりのものではない」と、人工の側も、生=自然の側もともに自身のアイデンティティの危機的状況に置かれていることを指摘する。

危機にあるとき、人間は、人間性と創造的能力という資源をともに必要とする。自然という資源とさまざまな学芸を備えた文明という資源を、必要とするのである。横溢する技巧をひけらかしながらも小手先の技など一顧だにしない、この法外に誇り高く自信に満ちた劇において、人工は人間の性質=自然にその獣性を文明化する機会を与え、人工と自然との交歓がかくして肯定されるのである。

自然か、人工かの対立ではなく、自然と人工はゆるやかに混ざりあう。それはある意味、1つ前で書いた贈与経済的社会なきあと、祝祭が担っていた機能である。
そして、この劇で示される自然と人工の混淆は、シェイクスピアの技によって加工された、ルネサンス的祝祭の形でなのかもしれない。

コリーは『テンペスト』についても次のように書くが、ここでも単純な「自然対人工」の構図はアップデートされ、自然と人工の新たな結びつきが提出されているように思う。

とすれば、これこそが、プロスペローの「人工=技(アート)」なのだ。その目的は、自然の効果を高め、人間の情、人間の結ぶ絆、人間の品格の比類ない成果を、それが稀少であるがゆえに際立たせることである。自らを錬磨した男女が、獣じみた生活を退ける一方、他方では社会や文明につきものの複雑さに偏在する道徳的誘惑をはねつけ、忍耐と才能をもってなしとげた業を際立たせることである。

羊の出てこない牧歌劇である『テンペスト』。魔術師プロスペローによって巻き起された嵐により外洋から隔離された、この島で起こる出来事は、プロスペローによって仕組まれる。それを空気の精エアリアルと半人半獣のキャリバンが手先としてサポートする。プロスペローはこの劇中で「自然だけではできないことをなし、分別をそなえた人間の五感を欺き、自然の法を変化させ、自然の女神が独力では保証できない回復を容赦なくはかる」。プロスペローはいわば劇中に登場していつつも、劇そのものの演出家でもある。

だからこそなのだろう。

我々は、詩人が牧歌の虚構のもう一つの側面を完璧に理解していたことを知るのかもしれない。すなわち、詩人は自ら創出した牧歌的自然を支配し、自然は詩人の想像力の赴くままに千変し万化するという側面である。

ここにシェイクスピアの牧歌劇の秘密の1つがある。僕は、コリーのこの本を読んだとき、このシェイクスピアによって提示された、自然と人間の関係のあり方になんとも言えない魅力を感じた。

まだ、うまく言葉で表現しきれないのだけど、自然と人工がますますもつれあう世界で、僕らが自然を否定しきらない形で、祝祭を欠いた時代を生きようとすれば、プロスペローの白魔術のようなより自然を模した形での人工の技を繰りだして行かなくてはいけないのだろうと思ったりする。それはゲノム編集のようなものも含んだり、バイオ素材のようなものもそうだろう。

自然と人工が複雑にもつれあう世界におけるデザインは、どうあるべきか? 明らかに昔ながらの自然対人工という構図はアップデートが必要だ。
そんな観点でもうすこしシェイクスピアを読み込んでみたいと感じている。

#シェイクスピア #演劇 #文学 #自然 #アート #デザイン

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