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成長の資格

言葉の意味。
結局それは生きる個々人の生のおける価値の表象だ。
であれば、その意味するところは似ることはあっても微妙に異なるは当然。それを俯瞰すれば1つのキーワードに集まるのはバズのようにあやふやに見える。それは群衆=クラウドがそれぞれ違って全体としてもやっとした雲のように映るのと同じこと。だから、その全体をみてバズワードだと非難したりつもりでも、結局その非難さえバズワードの雲の一部でしかないのだから、その言葉に対すふほかの態度以上の価値を持ち得ない。
これを現代の表象論として、示してみたのが1つ前の「貴方も私もクラウドのひとり」だった。

この構図が見えていれば、なぜオープンイノベーションが求められるか、成長にはオープンマインドが必要かも本来おのずと理解できるはずである。
価値のズレ、意味のズレが集まるクラウドという構図が目に映っているなら、いま自分(たち)がもつ価値以外のものを手にしようとする際に、そのズレを利用した「結合」が得策であるのは言わずもがなのことだ。20世紀はじめにヨーゼフ・シュンペーターがイノベーションを新結合として定義したのをみてもわかるだろう。

意味、価値のズレを利用して、外から自分がもたない意味や価値を手に入れ、その結果、個人にしても、個別の法人にしても成長のきっかけとする
その方法を手早く進めようとした場合に、自分(たち)だけ閉じて、こっそり他人(他社)のもつ意味や価値を手に入れようというのではなく、みずからも外に開くことで他人(他社)とのあいだの結合をより迅速かつ量的にも多くしようとするのは理にかなっているはずである。
それこそ所謂オープンイノベーションとか共創とかが求められる理由である。別に流行ってるからやるものではなく、そういうことがやりやすくなったから、だったらやらない理由なないよね?という話だ。本来なら、現代のこの環境になればむしろ、閉じたまま進めることのほうに理由が必要なくらいだと思う。
それは個人でも同じで、自分のなかで閉じたり、専門領域のなかで閉じるのはあえて学びや成長の機会を減らそうとしているようなものだ。

だから、利点という側面から考えれば「開く」ことを拒む理由などないのだが、それでも拒否が起こるのは結局自身を開くことに自信がないケースなのだろうか。

「自分のいまもつ価値を守りたい」「いまわかっていないことを他者からすぐに学べると思えない」「まず他者のもつ意味や価値を理解できるかも不安」--こうした保守的な姿勢が「開く」ことを避けようとする姿勢につながってしまっているように思う。それで成長の機会をみずから閉ざしてしまう。

何もできないような人は不安などもろともせず、がむしゃらに開いていけるから、むしろ、それなりに能力がある人の方がこの停滞にはまりやすい。
何かわからないものに立ち向かうとき、わかりそうな人に聞いてみたりといった行動さえ躊躇してしまうようだと新たな価値の獲得はむずかしい。さらに自分が新しい価値獲得が得意じゃないという理由で、新たな価値獲得自体を批判しはじめたら、もはやなんのことかわからない。闇雲に挑戦するのもどうかと思うが、それよりもリスクばかりを気にして挑戦をしないことの方がはるかに問題だと思う。

だから、ある意味、この保守的に閉じてしまいがちになるところを、いかに挑戦の意思を持って開く姿勢に変えていけるかどうかが成長の資格なのだと思う。

「驚くことは疑問の起源である、とはいえ、驚くことがなぜ哲学することの本質にとって原理的に重要なのか? なぜ驚くことに聖なる意味を認めるのだろうか?」と『形象の力』で書くエルネスト・グラッシは、その問いのひとつの解として、アリストテレス『形而上学』からこんな抜粋をしている。

驚くこと、太初に、そして今なお人間を哲学することへといざなってきたものが、これである。この驚くことは、解明されていない現象のうちまず一番近いものに向かう、次に少し歩を進めた者はもっと難しい問いに取りかかる……とはいえ何かを説明できず驚いている者は、自分の無知を思い知る。その限りでは神話に親しむ者も哲学者である、というのも神話は驚異の出来事からなるのだから。

この「解明されていない現象のうちまず一番近いものに向かう」第一歩が「驚くこと」なのだとしたら、自分の殻の外に出て、他者に出会うことは「驚く」ための何よりの方法であるはずである。
だが、これをせず、自分(のプライド)が傷つくのを怖れてなのか、自分の手持ちの知識やノウハウの範囲に留まりながら、そこから手の届く範囲のものにしか手を伸ばさないというケースも少なくない。驚きから自分を遠ざけて、なんためになるのかわからない安全を確保しようとしてしまう。

けれど、安全などというものはない。

安全を確保しようと閉じたつもりの人のところにだって、時に運悪く外からの襲来があったりする。そんな不運(?)に見舞われてしまうと、そうした人は過度に反発したり、無言になってしまったりしてしまう。普段から自分の未知の領域に触れることに慣れていないと、こうなってしまうことは自然なことだ。

だから、そのこと自体は仕方がないのだけど、問題はそうなる前の姿勢にあるりそうならないためには、あちらからの不意打ちで戸惑わないよう、みずから積極的に外に出ていくことに慣れるしかない。不意打ちで驚くのではなく、みずから驚きを探しに出かけられようになることだと思う。

繰り返すが安全などない。
不意打ちを逃れることなどできないし、いつまでも成長せずに変わらずいられるほど、いまの社会はまったく安泰ではないし、その変化が自分の思うとおりに動くことはない。

だから、いくら外に対して正論ぶった文句を重ねてみたところで仕方がないのだ。それはひとつの視点からの正しさでしかありえないし、それがどんなに正しかろうが刻々と状況は変わって正しさの根拠さえ日々失われていく。
変わるべきは常にいつでも自分の側だと自覚しない限り、どうにもならない。
そう、自覚できるか? それが資格。

内に閉じてしまう姿勢を自覚して、それを意識して変えていこうとしない限り、残念ながら、いまできている以上のことはできるようにならない。
そこは学び方や教え方以前の問題であり、成長するための前提条件だと思う。

最後にもう一度、グラッシの『形象の力』から引こう。外に開くとは、誰かにやり方を教えてもらうということではないとわかってもらうために。外に開くのはあくまで自分のもつ何かと予期せぬ(つまり驚きが不可欠な)新結合のために、外の世界にある、意味や価値を有した生の素材と出会うためだとわかってもらうために。

原則や原理は何かによって説明されるようなものではなく、ただ対象〈突然〉洞察され、見出されるものである。この〈見出すこと〉なるものが、〈発見〉の、〈天啓〉の、なせるわざである。帰納法はわれわれが多様性を根源の形象に還元するときのあらゆる認識の起源である。とはいえ帰納法とメタファは、原型を見ることに根差しているが、その原型はただ形象を使ってのみ〈洞察〉され、表現できる。

型にはまったものを外に期待するなら最初から間違っている。期待すべきは前触れもなく、突然見出される自分にとって未知の意味、価値なのだから。

それを手にしてはじめて成長の具体的な過程がはじまるのだ。

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