愚直に読み、愚直に書く

本は比較的読む方だと思う。
極端に多いとは思わないが、まあまあそこそこ読んでいるのだろう。

分厚い本が好みなので冊数は多くない。読みにくい本が多いので尚更だろう。
分厚く読みにくい本が好きなのは、厚さと読みにくさ故では本当はない。単に読みたい本にそういう本が多い傾向にあるだけだ。

例えば、今年になって読んだのは何だろう?
昨年から読み続けていた本では、ホイジンガ『中世の秋』、ジョルジョ・アガンベン『スタンツェ』、フレデリック・ボワイエ他『アートで魅せる 旧約聖書物語』、ジャンカルロ・マイオリーノ『アルチンボルド エキセントリックの肖像』
年が明けて読んだのは、ゲーテ『ファウスト』、シェイクスピア『トロイラスとクレシダ』、トマス・D・カウスマン『綺想の帝国』、さらに、まだ読んでる途中のものがスティーブン・カーン『空間の文化史』、ダリオ・ガンボーニ『潜在的イメージ』、そして、フランセス・イエイツ『ジョルダーノ・ブルーノとヘルメス教の伝統』
それぞれに見事に面白い/面白かった。

このうち、2つが上下巻セット、ガンボーニとイエイツはかなり分厚い。カウスマン、マイオリーノ、カーンは平均的な厚さだし、シェイクスピアなどは数時間でさらっと読める量、旧約聖書は分厚いが絵が中心なので読む量は少なかった。まあ、長いのと平均以下ので半々ずつくらいだろうか。

こんな感じで複数の本を同時に読んだりするので、月に何冊読んでるか?という質問には困る。ここにあげた10冊はこの1ヶ月半くらいのことだから、読みかけとかも考慮すると、4-5冊程度になるのだろうか。まあ、ホイジンガとゲーテは上下巻だったりもするので、やはり何冊と言えばよいか、わからない。
あと今回のように日本人が書いたものを読んでない期間は冊数は減る。やはり日本人著者が書く本の方がスラスラ読めるから。

愚直に読む

さて、こんな風に、本を読んでいるのだが、本を読むのが好きなのだろうか? まあ、好きだと意識したことはないが、毎日少しでも読書の時間はあるので好きといってよいのだろう。本を読むのは、新しいことが知れるので、やはり面白い。ただ単に本に書いてあることが知れて面白いというだけでなく、そこからいろんなことが考えられ、自分なりの思考がまとまるのが面白いのだ。

その思考の一部はまさにこのnoteの場にも展開されているとおり。
だいたい本を読む際は気になった箇所は、あとで引用に使えるように、Evernoteにメモするか写真を撮って残している。

つまり、読みながら、自分の考えとして編集しながら(少なくとも編集の方向を探りながら)読んでいるということだ。

自分では、これが大事だと思っている。自分の考えとして編集するというのは、自分の文脈との関連で考えながら読もうとしているということになるだろう。

視点を持って見る」で書いたとおり、基本的に理解というものは文脈がわからなければ得ることができないものだ。読書というのは、本の文脈のなかで理解することも大事だが、自分の文脈に置き換えての理解がないと、あとで本を通じて得た考えを自分の生活や仕事で展開できない。それができないということは本の知を本の領域に閉じこめてしまうことになる。これはもったいない。本の知はオープンにして、自分自身の現実とつなげてこそ、面白くなる。だから、元から自分の現実に近いものを読んでしまうと、ちょっとつまらない。ギャップから生じる予想外の発展が生まれにくいから。

本の知をオープンに自分の生活や仕事に展開する能力がなければ、他にも様々な情報をそれとは別のところに応用する力が育たないということでもあると思う。

本を読むことは、新たに情報を手に入れられるのはもちろん、物事を理解し、考えを展開する方法を学ぶのにも役立つ。理解のむずかしい事柄を前に自分がどうたち振る舞えばよいかを教えてくれる。そして、ある本に書かれた情報と異なる本に書かれた情報を自分自身の見方や考え方によってつなぐ機会を与えてくれ、どちらにも明示されていなかった新たな考えを創造するヒントを与えてくれる。本はある意味、作者という他人の頭の中をのぞいているようなものだから、他人の考えというものを理解する訓練のよい機会でもある。いろんな人の頭の中をのぞくことで普段のコミュニケーションでも相手の話を理解しやすくなる。
むろん、こうしたものを得るためには、本に愚直に向きあい続けることが必要であるが。

愚直に書く

ただ、本というのは、読むだけではまったく充分ではないと思う。
読むと同時に自分でも書くからこそ読むことで得たものが生きてくる。書かないなら、読んだことをその半分くらいしか価値として享受できないのではないかとさえ思う。読みっぱなしは良くない。

本を読むのは、考えるためだ。
考えて他の人と会話をし、考えを交換し、そんな人たちとの共同でクリエイティブな力をもって、いろんな価値を生み出せるようになるためでもあると思う。

例えば、本をちゃんと読むことで、こんな力が得られる(僕は得られた)。

物事や人の話を理解する力、他人の気持ちや未来のことなど明示的でないものを想像する力、はじめてやることの計画を考えながら組み立てる力、人が理解して利用するものの情報を設計する力、チームを和気藹々とした雰囲気の創造性あふれる状態にする力、どうすればより良い状態を作れるかを考える力、たくさんの情報から要点となることを抽出しまとめ上げる力、などなど……。

そのうちのどれであろうと、はたまた、その全てであろうと、そんな力を身につけたかったら、結局は、愚直に読むことが必要だ。そして、さっき書いたように読んだことを活かすためには同時に、愚直に書くしかない。読むのも、書くのも、ある程度の頻度の高さは大事だ。

このnoteを書き始めたのは、去年の暮れ23日のこと。このnoteで30記事めになる。50日間で30本、そこそこのペース。最近はほぼ毎日書けているので、読んだり、仕事のなかで感じたり考えたりしたことがその日のうちに整理できている。

ちょうど10年前くらいも本家のブログ Design it! w/LOVE を毎日更新していた。そんな時期が3年くらいは続けていたのではないだろうか。
その後、更新頻度が減っていたが、昨年はなんとか月に4-5本くらいには書くことができるようになっていた。
そして、このnoteを使いはじめて更新がより気楽にできるようになった。ほとんど頭の中で考えるように、この言葉を書きつけられるのが良い。負担なくいつでも書けるツールを選ぶというのも大事だとあらためて感じた。

結局はこういう頻度をもって書きながら自分の考えを組み立てるトレーニングをするのは大事だと思う。そのことでやはり言葉を用いた理解力や想像力、思考の組み立て力や展開力などは積み重ねで高まっていく。
いまでもトレーニングの頻度が高いときとそうでないときでは、日々の頭の働きがずいぶん違う。サボっちゃダメだなーと時々感じる。

愚直に読み、愚直に書く

さて、この歳になると、どうしたら、そんな風に考えたり、仕事したりできるんですか?、と聞かれることもなくはない。確かに、人とすこし違った頭の使い方をしてる分、ラクできているところはずいぶんある。

でも、どうしたら?という問いへの答えはいつもわからず困る。
だけど、1つ言えるとしたら、毎日、愚直に読み、愚直に書くことをひたすら続けることではないかと思っている。

本も結局、マクルーハン的な意味でもメディアなのだろう。
「メディアはメッセージである」というマクルーハンのメディア観は本にも当てはまる。そのメッセージはその内容にあるのではなく、本というメディアそのもののあり方、つまり、それが人間の思考や生き方にどんな影響を与えるメッセージを発しているかの方にある。
だから、どんな本を読むかとか、ジャンルにこだわるとかはあまり重要じゃない。好きなものを愚直に読めばいい。
それより思考をつくるメディアとしての本そのもののメッセージをしっかり受け止める姿勢さえとれば、現代に必要な思考や行動の結構大部分が本との関係--読み、書くという関係--を通して身につけることができる。

そういうことを積み重ねられるか/られないか。

#読書 #note #書く #思考 #本

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Hiroki Tanahashi

言葉とイメージの狭間で

ヨーロッパ文化史に関する話題を中心的に扱いながら、人間がいかに考え、行動するのか?を、言葉とイメージという2大思考ツールの狭間で考える日々の思考実験場
2つのマガジンに含まれています
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