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進化はいかに「社会」を生み出すのだろうか?〜E・O・ウィルソン『ヒトの社会は動物たちが知っている』

子どものころは、巣から出てきてせわしなく動き回る働きアリを延々と見ていられたものです。そんな私たちにとってとてもありふれたアリという生き物が、非常に高度な社会を持っていることはよく知られるところでしょう。

女王アリが卵を産み、「ワーカー」と呼ばれる働きアリが仕事を分業し、家族がひとつになってコロニー(巣)を維持していく。その生態は驚くほどに多様です。巣の中に畑をつくって農業をする種(キノコアリ)、仲間が集めてきた蜜をおなかにパンパンに溜め込み、一生涯エサの「貯蔵庫」として生きる働きアリが存在する種(ミツボアリ)、敵に襲われたり巣に侵入者が現れたとき、胸にある毒腺を急速に膨らませ爆発させて敵を撃退する種(ジバクアリ)まで。アリの生き方は海の底ほど奥深く、興味が尽きることはありません(その生態については九州大学の村上貴弘先生が最近出された『アリ語で寝言を言いました』という本が詳しく、とても面白いです。一気読み必至)。

アリのように、集団が協力して子どもを育て、子どもを産まない個体が存在し、世代が重なりながら集団を維持していく生物のことを「真社会性生物」と言います。今回刊行になる翻訳書『ヒトの社会の起源は動物たちが知っている』の著者エドワード・ウィルソンは、ハーバード大学名誉教授にしてアリ研究の世界的権威。御年91歳で、アリを中心に真社会性生物を半世紀以上研究してきた人物です。

ウィルソンがなぜ真社会性生物(とくにアリ)を研究しているかというと、やや雑駁な言い方になりますが、それによって人間を含む全ての動物の社会行動を進化論的に解明しようとしているからです(その詳しい経緯や位置づけについては、本書に収載されている吉川浩満さんの卓抜な解説をお読みください)。そもそも70年〜80年代においては、動物の議論をそのまま人間にあてはめるなんてけしからん!という風潮が強く、ウィルソンの旗色は悪かったのですが、現在ではウィルソンの研究を始めとする進化生物学の知見は認められ、諸学問に大きな影響を与えるまでになりました。

前置きが長くなりました。この本はそんな生物学の世界的大家が放つ、科学の進歩と研究の発展を踏まえた、21世紀の『創世記(GENESIS)』です。『創世記』とは言うまでもなく、天地創造と人類がどこから来たのかが記されたユダヤ教・キリスト教の聖典の最初の書のこと。原書は『GENESIS The Deep Origin of Societies』と銘打たれています。

なぜ私たち人類は長い進化の過程で、利他主義と協力をベースとした高度な社会を生み出し、発展させてきたのか。その謎を、社会性をもつ、人類よりも遥か以前からこの世界に存在する他の生物の生態や進化の過程から解き明かそうという試みです。

途方もなく壮大な試みだとは思いませんか。しかも本書の総ページ数はたったの192ページ。はたしてそんなことが可能なのでしょうか。

以下が本書の(本編の)目次です。

1 人類のルーツを探る 2 六段階の進化 3 進化をめぐるジレンマと謎 4 「社会」はいかに進化するのか 5 真社会性へと至る最終段階 6 利他主義と分業を生み出すもの 7 ヒトの社会性の起源

先ほどもお話しした通り、本書の日本語版解説は文筆家の吉川浩満さんが執筆されていて、ウィルソンの来し方から本書の要点・注意点、この本の持つ意義についてたいへん丁寧に、かつ誠実に記されています。ですので(その解説だけでもぜひ)本屋でお手にとってお読みいただけると嬉しいです。

私はこの本の編集者の立場から、本についてお話しします。

生物学や学問全般に詳しい方なら、ウィルソンの名はずいぶん昔から知っていることでしょう。ただより広範な範囲、一般的なレベルにまで広げていくと、『利己的な遺伝子』で一世を風靡したリチャード・ドーキンスの名は知っていても、エドワード・ウィルソンは「?」という方が多数なのではないでしょうか(2度もピューリッツァー賞を獲っているにもかかわらず…)。それには色々な理由や事情があるものと思われますが、これまで邦訳されてきたウィルソンの著書は圧倒的に大著が多く、専門外の人にその主張が届きづらかったことにも一因があるのかもしれません。あるいは、海外の生物学の知見や識者の位置づけなどを、平易な言葉で一般に紹介する人が比較的少ないせいもあるのかもしれません。

進化生物学が多方面に影響を与える今、もっと多くの人に、長年にわたって生物学に影響を及ぼしてきたエドワード・ウィルソンの思想のエッセンスを手軽な形で知ってほしい。本書はその意味でうってつけです。なにせ本書の総ページ数は192ページ。ウィルソンの邦訳書史上もっともコンパクトでありながら、その思想が余すところなく凝縮されています(そしてまた小著でありながら、なかなか読み応えもあります)。そして「人間の社会はいかに生まれたのか」というとんでもなく壮大なテーマを、この文字数で、かつ明快な言葉で語り切るのは常人のなせる技ではありません。その大胆な風呂敷の広げ方と語り口も、和書にはない魅力です。

現下の状況、とりわけコロナ禍をめぐる状況のなかで、私たちの社会は一層分断が進み、人との関わり方もまた変容しつつあります。そのなかにおいて、今一度人間が培ってきた「社会」や「利他」について根源的に捉えなおすことは、おそらく必要なことではないでしょうか。そうした意味でも「ヒトの社会の起源」を探求する本書は、多くのヒントを与えてくれるのではないかと思います。

最後に造本のことを。この本は社会生物学、進化生物学を学びたい人にとっての初めの1冊として、またふだんから自然科学の本を読む人だけでなく、より多くの人にウィルソンの思想をひらく1冊として、書店の棚に長く置かれる本になればと願っています。紙の本として残るよう、講談社メチエなどを手がける装丁家の奥定泰之さんと話し合い、ブックデザインをいただきました。判型はハンディなB5判変型の上製(新書より少し大きいくらいのサイズ)。カバーの美しいイラストは三宅瑠人さんの手によるものです。カバーを外して広げてみると一枚絵になっているのですが、このシーンが何を示しているのかは、中身を読んでのお楽しみです。

発売は7月30日。現下、なかなか外出のしづらい状況ではありますが、ぜひ書店で現物をお手にとっていただき、紙の手触りや軽さ、質感を実感していただきたい1冊です。

E.O.ウィルソン『ヒトの社会の起源は動物たちが知っている〜「利他心」の進化論



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