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すべての問題は「偉そう」という振る舞いにある

人に「こうすべきなのに何でやらないの?」と詰めてくる方がいらっしゃいます。たいていの場合は上司という存在ですが、たまに経営者であったり、同僚であったりします。

ところがその人をじっくり観察してみると、その人もすべき行動をまったく出来ていないということ、よくありませんか? ありますよね?

コリャア、納得がいかない。君は自分を棚に上げてよくそんなことが言えるねえと、顔を真っ赤にして激怒をするわけだ。これは大いに不毛な議論を呼ぶ。目的の達成を忘れ、「やらない」「できない」の水の掛け合いにしからないだろう。しかし、その前に一歩引いて考えてみるのである。なぜ、私は彼(彼女)に不快感を覚えているのだろうか。

「自分ができてないことを偉そうに押し付けるから」
「上に立って偉そうにしているのに何もできないから」
「めっちゃ偉そうだから」

なるほど、これはつまり、「偉そうにしやがって」というところがすべての起点になっているのではなかろうかと考えるのである。実際問題として、自分ができていないことを「謙虚に」お願いしてきたら、相手ができていなくても「しょうがないなあ」と思いませんか?

そう考えれば、不毛な世の中のすれ違いは「偉そう」を外せばすべて事が上手くいくのではないか。

例えば、「桃太郎」。あれは鬼が偉そうにしているから悪いんですナ。福沢諭吉が鬼の立場になって「桃太郎は鬼が大事にしていた宝を略奪したのではないか」という愉快な解釈をされているが、桃太郎が偉そうに振る舞い、鬼が謙虚に慎ましくあれば、立場は逆転しているかもしれない。

もし、鬼が文化財保護の観点からほうぼうの宝を奪っていたとしたらどうでしょうか。宝は美術館で展示されるべきでしょう。メンテナンスも必要です。その宝を持っている人たちが偉そうに振る舞い、宝を使い潰していたら人類の文化を失うことになる。そこで鬼たちは頭を下げ、宝を引き取り、修復をすることにしたのである。それを踏みにじったのが桃太郎だ。突然あらわれた彼は、鬼たちを切り殺し、宝を奪っていった。これはまるで強盗である。しかもその宝を独り占めするという傲慢な態度を取っている。(原典は楠山正雄の「桃太郎」でございます。青空文庫で読めるから皆の衆、読みなさい)

いかがだろうか?

例えば、さるかに合戦。この物語におけるさるの振る舞いのひどさというのは、言葉にならない。こんなひどい横暴な動物がいるのか。まさに暴虐の王、というよりはガキ大将。しかしこれも、さるの「偉そう」な態度が全ての引き金になっていることをお分かりであろうか?

私が一番指摘したいのは、さるが木の上から熟していない柿をカニに投げつける部分である。柿が欲しいとむせび泣くカニに、柿をあげるまではよい。「これでもくらえ」という言葉がいけないのだ。これではどうにも「偉そう」なんである。ここでサルが「まだ熟した柿で申し訳ないけれど、もうすぐ熟すよ。みんなでお召し上がりください」と言えばよかったのだ。なぜそんなことを言ってしまったのだろうか。近年のさるかに合戦は最後にサルは死なないというが、昔は死んでいた。一言が命取り、というのは政治家だけの話ではないのである。

いかがだろうか?

すべての元凶は「偉ぶる」という振る舞いにあるのである。君たちも気を付けたまへ。エッヘン。

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