文学と現実

 今日の礼拝後は『Cafe 青山文庫』にて、いつものサイフォン式コーヒーを喫みながら、2024年2作目となる短編小説『強欲弱者(仮)』の1回目の推敲作業の続きをしました。
 大なり小なり、誰だってそうだとは思いますし、こんな大変な時代にこんなことを言うのは罰当たりとも思いますが、なんだかやはり、特に30代になってからどうしようもなくむなしくなる時が多いです。そんななかでも「創作」に没頭している時だけは「むなしさ」を忘れることが出来ますし、なによりもその「むなしさ」というのも、私の文学において、ひとつの「主要重要な主題」としてそのまま用い、そのたびに昇華しています。

 今回の『強欲弱者(仮)』は「もしも私が不登校引きこもりを経たニートのまま30代を迎えて、とあるきっかけによって社会復帰をしようとしたら」という着想にもとづき、発展させたものとなっております。
 あまりこの呼称は好きではないのですが、私はいわゆる、最近世にいうところの「弱者男性」に該当すると思います。それでも『強欲弱者(仮)』の作中で描かれる、猜疑心(さいぎしん)の強い弱者男性主人公の境涯ほどひどくはなく、その余裕は私自身が「弱者男性」でありながら、3人称視点にて客観的にその主人公のありようを描いたところにも表れているでしょう。
 
 しかし、こうした「自身にありえた深刻な世界線」を描いて心底思うのは「本当にこうはならなくてよかった」ということで、私の場合はキリスト教との、教会との出会いが、その「深刻な世界線」から脱け出すきっかけとなったわけですが、こういった「ニート」問題に限らず、きわめて「深刻な現実」というのは、現実問題としてごまんとあるわけです。
 そのことを考えると、アマチュアである私の「文学」が、その現実にはびこる「深刻な現実」に対して、いったい何の意味をもたらすのか、なんの力があるのかとも思ってしまいますが、そのたびに私は、マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』の岩波文庫版の解説において、翻訳者の吉川一義氏が東日本大震災と文学について論じている次の一節を想います。

悲惨な現実を前にして、いかに文学が無力かであるかを想い知らされた。しかし何度も流した涙の多くは、惨事それ自体による面もあるが、むしろそれに向き合う被災者や報道陣のことば(それも広い意味の文学にほかならない)に心を動かされたがゆえであることにも気づいた。やはり人間を勇気づけるのは、事実ではなく、ことば(文学)であると再認識させられた。

マルセル・プルースト著 吉川一義訳 『失われた時を求めて』 岩波文庫 

 それから、内村鑑三が『後世への最大遺物』において論じた次の一節も。

われわれの心に鬱勃(うつぼつ)たる思想が籠(こ)もっておって、われわれが心のままをジョン・バンヤンがやったように綴ることができるならば、それが第一等の立派な文学であります。カーライルのいったとおり「何でもよいから深いところへ入れ、深いところにはことごとく音楽がある」。実にあなたがたの心情をありのままに書いてごらんなさい、それが流暢なる立派な文学であります。

内村鑑三著 『後世への最大遺物』 岩波文庫

 じつは今日の礼拝後は、あまり話したことの無い、あまり親しくない人々が多く、いつも気安く話せる友人も来ていなかったため、礼拝が終わるとすぐに会場をあとにして、前述の『Cafe青山文庫』へとおもむいたのでした。
 こうした「人見知り」な自分について、思うところはあるのですが、話したくても「内向的」ゆえに、自分のことが話せなかったり、対面のコミュニケーションや人付き合いがあまり上手ではなかったりする、そのぶんの持て余したエネルギーは「文学」に注ぐこととし、内村鑑三が論ずるごとく、私の心情を、私なりの「ことば」を、これからもありのままにつむいでいく所存であります。

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