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太宰治賞目指す放蕩息子

 昨日は昨年応募した「第40回太宰治賞」のことがふと気になり、HPを確認したところ、2週間前の3月1日に応募総数1405篇のうちから選ばれし120篇(太宰治賞は1回に2篇まで応募出来ます)の一次選考通過作品の発表がされておりました。

 「通過作品一覧はこちらをご覧ください。」

 期待と不安にドキドキしながら、このPDFのリンクを開いて、何度かスクロールして確認するも、そこに私のペンネームと作品名はありませんでした。私としても、あとからになってその2作は「ちょっと会話文が多めだったな」という改善点が目についた頃の作品で、ちょうど「地の文と会話文のバランス」を試行錯誤しだした頃の作品でもあったので、「まあ運がよければ一次選考くらいは⋯⋯」くらいの気持ちでいましたが、この選考結果にかんがみると、1405篇のうち1285篇がふるいにかけられるのですから、一次選考が通るだけでも、それは誇るべきことであると思いました。ということで、今年は一次選考通過を目標に引き続き執筆活動を続けていきたいと思います。

 それとは別に、近日他県に引っ越す友人から「今月の24日に締め切りをむかえる『第9回せんだい短編戯曲賞』に向けて共同で戯曲を創ってみないか」という誘いがありまして、日曜日に居酒屋で短く打ち合わせをしました。写真は、その居酒屋で撮ったものです。
 しかし、彼との思い出づくりに戯曲づくりを共にやってみようと、ちょこちょことあらすじやら登場人物やらを考えていたものの、じつのところ個人的には、コンクールに向けた小説や戯曲等の文学作品というものは、それこそ最低でも半年前や1年前くらいから入念に練り上げたものを応募したい、というのが本音でした。
 ところが昨日の夜に、同じ教会に通っている友人からの誘いで、とある教会が開いている聖書の学び会へと向かう道中にて言われた、「いいんじゃない、2週間でどれくらいのものが出来るか、お互いに楽しめれば」という彼の一句になんだか励まされました。この一句は、とにかく良い意味でイージーゴーイングな彼の片鱗を体現していると思います。

 励まされた、といえば、最近はとかく「神」へというよりも「キリスト教」や「キリスト教徒」について、なんだか荒くれた感情を抱いていましたが、前述の聖書の学び会に参加したことで、そんな自分に恥じ入り、教会用語になりますが、いわゆる「悔い改め」へと導かれました。
 私は「放蕩息子のたとえ話」でいうと、そのだらしないライフスタイルもふくめ、基本的には「弟タイプ」であるとは思いますが、それはあくまで表面上のことで、表面上ではだらしなく、「こんなにもだらしないわたしは、だれのことをもさばける立場にゃありゃしません」みたいな、いかにも「弱者」の風を装いながら、その内面では、そんな「弱者」の自己像も手伝ってか、なにかとイライラカリカリしては陰湿に他人をさばいてばかりいる「兄タイプ」のようなところもあります。
 そんな私が、人や教会・コミュニティーと初めて交流の時を持つと、表面的に目立つ、だらしない「弟たる自分の情けないすがた」を必要以上に卑下することがほとんどですが、それと同時に表面に出さないだけに自分でも気づかぬうちに陰険に積もり積もり、肥え太った「兄たる自分の不満の心」に気づかされることもあります。
 そして、いかんせん兄弟そろって「非社交的」ですが、だからこそ、自身のうちに表裏一体である「放蕩息子たち」を人々と交流させて、その交流のなかで、いろいろなことを経験させてやり、いずれにしても「ひとりよがり」なその態度をば、その都度改めさせる必要があると思いました。

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