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褐色細胞腫闘病記 第28回「突然の落花」

私はようやく芳河さんが待つ病室に戻った。

彼女は笑顔だ。でも、瞳にうっすらと涙が浮かんでいるのが見て取れる。
「さすがに心配しちゃったわよ、ホントにもうハラハラさせないでよお。良かったぁ、こうしてまた三島さんの顔が見れて」
「お手紙嬉しかった。芳河さんの手紙を見てから私、俄然、力が湧いてきたんだよ。本当にありがとう」
「野乃子ちゃんがどれだけ心配していたか…。 私、本当に…」
彼女が後ろを向く。泣きそうなのを堪えているんだろう。そうか、それほど心配させてしまっていたのか。

意識朦朧となっていた時に見た夢の話を芳河さんに話して聞かせた。
「え、それって実際お父さんは三島さんを助けようとしてたのかな。それとも単に紅白餅を投げつけたかったの?」
彼女があまりに素っ頓狂な質問をするので、私は笑ってしまう。
そして、笑っている自分に驚いた。
そうか、今、また私はこうして笑えている。私は大きな手術を乗り越えてここにいるんだ。それがようやく実感として心にすとんと堕ちる。

4回目の手術の痕は、左斜めにざっくりと35センチ。
今回の痛みは記憶が飛ぶほどの痛みだった。ほぼ失神していたのではなかろうか。でも、すっかり歩行も普通にできるようになり、食欲も戻りつつある。明日は抜糸。そして順調にいけば抜糸後3日くらいで退院になるだろう。

「ね、私が先に退院になりそうだけど、芳河さんが退院したら一緒にチーズケーキ食べに行かない? めっちゃ美味しいお店、私知ってるの」
「いいねー♪ 私もチーズケーキ大好き♪ 楽しみだなあ♪ ついでにパスタも頼みたいな。そこは他に何が美味しいの?」
彼女はニコニコと問いかける。
私は今まで食べて美味しかった料理を話して聞かせながら丁寧に書き出す。
「ミートソースと、ミートグラタン、あとね、意外とカレーも美味しいのよねぇ。コーヒーも美味しいけど、ゆずシャーベットもね」
私はその店の外観や間取りまでざっくり描いて見せる。
「わあ、いい感じじゃん。私の同人誌、置いてもらいたいな」
「図々しいなあ。でも芳河さんの描いた画、お店の雰囲気に合うかも♪」
他愛ない話をできることが、今、とてもとても嬉しい。

私の回診には梶並先生が来るようになった。
「おお、もうすっかり回復しましたね。一時はどうなることかと思ってたけど、三島さんは生命力がハンパないねぇ」
「ゴキブリみたいって言いたげですよ先生」
「あはは。正直な俺でもさすがにそこまでのことは言えないよ」
軽口を叩き合っていると、芳河さんがベッドにちんまりしてニコニコこっちを見る。梶並先生がここに来るようになって、彼女はコマメにカツラを着ける。なんともいじらしい。

「三島さん、棚沢先生の帰国が少し早まったようです。退院後は棚沢先生の外来診察が受けられますよ。今回のオペの経緯はすべてお伝えしてありますからね」
私は心から安堵する。ああ、本当によかった。
私はまだその時、北野先生が大学病院に来なくなっていたことを知らなかった。だが、よほどのことがないと代診の医師が治療途中でいなくなることはない。その辺の経緯は最後まで詳細を知ることはできなかったが、正直、もうあんな酷い医師には二度会いたくないと思っていた。

術前に空床だった2つのベッドは既に埋まっていた。
2人ともSLEの患者さんで、歩行があまりおぼつかない様子だった。
芳河さんは相変わらずその2人のサポートをし、なおかつ相変わらず部屋の雰囲気をめいっぱい明るくさせていた。

翌日の昼間だった。そんな芳河さんが突然ベッドから起きなくなった。
「ねぇ、芳河さん、どうしたの?」
私が何度も気にかけて声を掛けるが、彼女は黙って応えない。ただひたすら目を閉じ、微動だにしない。
しかしこれはただごとではない。私が様子がおかしいと看護師に訴えても、彼女は看護師にも何も言わない。看護師も大した処置をしようとしない。

夕方、彼女がついに唸り声をあげた。その声は、今まで私が一度も耳にしたことのない声。まさに苦悶の咆哮のようだった。
「痛いの? 今先生呼ぶからね!」
私はナースコールを押す。どこが痛いのだろう。見てみると下腹を両手で押さえて海老のように丸まっている。

看護師が駆けつける。
「芳河さん、今すぐ痛み止め追加しますからね」
「それより早く診察してください。誰でもいいから先生を呼んでください!」 私はいつになく大きな声を上げる。
「芳河さん、聞こえる? 痛み止め追加してくれるって。もうすぐ効いてくるからね」
でも、看護師が持ってきたのは持続的に入れていたいつものモルヒネだ。これでは効かないのではないかと素人ながら問うと「これ以上強い薬は使えないんです」と小さな声が返ってくる。私は絶望的な気持ちになる。

「どうしてほしい? 背中撫でたら少しは楽?」
私が問うと彼女はこくりと頷く。
私は横になっている彼女の背中を撫で続けた。
どのくらいそうしていただろうか。

私の腕が疲れてきた夜半、梶並先生が血相を変えてやってきた。
「15時間越えのオペにかかりっきりで今になってしまいました。これから芳河さんの緊急オペします」
「えっ。これからオペするんですか?」もう夜11時を過ぎている。
「芳河さんのご家族はお呼びしましたから。三島さん、ずっと撫でてくれてたんだ。お疲れ様でした。体、大丈夫?  明日の朝にはオペ終わってるからね」緊迫した梶並先生の顔。
「あの、先生、芳河さんは…」
「明日話す。本当にありがとう」
切迫した声。梶並先生の様子はただごとではない。ストレッチャーが運ばれる。彼女はずっと目を閉じたまま、何も話さない。
もしかしたら痛みでここまで声が出ないのか。どんな痛みなんだ。私はハラハラと見守るしかできない。

私は眠れない夜を過ごす。心配で心配で吐きそうだ。
翌朝、芳河さんのご家族が私に御礼を言いに来てくださった。
「ずっと祐子のことを撫で続けていてくださったと聞きました。ありがとうございました。三島さんのことは祐子からずっと聞かされてました。とても励みになっていたようです。ありがとうございます」
お母様だろうか。とても美しい人だ。青いマスカラとビビッドオレンジのチークは派手だけれど、それほど下品に見えない。

「手術は無事終わりました。これから手術について梶並先生から説明がありますが、もしよかったら同席していただけますか?」
え、それはさすがにまずいのではないか。
「梶並先生が許可してくれないと思いますが」
「いえ、もう許可は取ってあります。先生は是非三島さんにも同席をお願いできればとおっしゃっています」
いいんだろうか。家族以外の私が入ることを、芳河さんが気を悪くしないだろうか。
「娘はもう、それほど長くありません」
お母様の再婚相手である芳河さんにとっては二人目のお父様が言う。
私は後頭部を殴られたようなショックを受け、心臓が跳ねる。

結局、芳河さんのご両親と弟さんと一緒に説明室に入らせていただくことになった。
梶並先生の顔色を見てギョッとする。見たことのない顔色。ほぼ土気色だ。
目の下の隈がひどい。足元もフラフラしていて、目の焦点もあまり合っていないように見える。昨日の朝からずっとオペしていたんだから当たり前だろうが、外科医の仕事のハードさを目の当たりにして私は呆然となる。
梶並先生はホワイトボードにヒトの胃腸の絵を描く。
そして赤いペンを持ち、大きな×を描きながらおもむろに言う。

「十二指腸、小腸、大腸のすべてが壊死していましたので、すべて切除しました。今、彼女の腸は体内に存在しません。かろうじて残せた部分に胃を伸ばしてつなぎ合わせている状態です。ただ、その部分も壊死しかけています。神経がつながることを祈ります」

想像もしていなかった壮絶な病状に私は言葉を失う。
こんな状態だったのに、あんなに明るくしていてくれたのか。彼女はずっと痛みに耐えていたのか。なんということだ。

「今、目指すことはひとつ。"救命" です」

え、こんな重大な宣告を赤の他人の私が聞いてしまってもいいのだろうか。私はご家族に、芳河さんにとても失礼なことをしているのではないだろうか。みんな黙って梶並先生の言葉を聞いている。
でも、私ほど動揺している人は誰一人としていない。もうこうなることはご家族はきっと覚悟していたのだろう。
「たとえ回復しても、二度と食べ物を口から摂取することはできません」
梶並先生がつらそうな口調で絞り出すように言う。

え? もう芳河さんは食事ができないの?
嘘。そんなことって、残酷すぎるよ。
チーズケーキは? ミートソースは? ついこの間、退院したら一緒に食べに行く約束したんだよ?

説明室を出て、お母様に呼ばれる。
「つらいことをお聞かせしてしまってごめんなさいね。でももう、半年前に余命3ヶ月って宣告されていまして。本人もそれはわかっていたはずです」
私は息をするのを忘れるほど驚愕する。え、全部わかっていた?

全部わかっていて、私を特別棟に連れて行ってくれたの?
全部わかっていて、私の術後をあれほど待っていてくれたの?
全部わかっていて、私をあれほど楽しませて、元気づけてくれていたの?

私は不意に2人で観た夕陽の美しさを思い出す。
まだあれから半月しか経っていないじゃないか。
いやだ。いやだ。いやだ。
芳河さんを失うなんて、絶対いやだ。

「祐子は三島さんがなかなか術後に戻ってこないことをとても心配していました。それは我々家族もです。もし三島さんが間に合わなかったらと思うと…だから、三島さんが戻ってきてくれて、こうして一緒に祐子の…」
お母様が泣いている。娘を失う痛みを思うと、言葉が出ない。

その日の夕方、芳河さんの意識が戻った。
私はすぐさま、ICUに駆け付けた。

よろしければ、サポートをお願いします。いただいたご芳志は、治療のために遣わせていただきます。