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"The LEPLI" ARCHIVES-65/ 「なぜ、今頃喋り出したのか?      もう一つの、CdG-川久保玲論-1」    最近の騒ぎについての私感プロローグ。

ー『そろそろ書き始めよう、僕が学んだコムデギャルソンと川久保玲の事。  或いは、巴里モードの35年。(仮称)』のための断章としてのプロローグ。

文責/平川武治:
初稿/平成二十四年弐月:

 はじめに。/2023年01月28日記。
 想い出すに、僕が川久保さんに初めて会ったのは確か、
’76年か’77年だたと覚えている。
なぜか、その時の彼女の装いを今も覚えている。
すでに、オッカパ頭で、巴里のリセアンヌたちが着ていた濃紺のコオト。
 丁度、僕の友人が、川久保玲と一緒に最初の”コムデギャルソン”を
立ち上げた三人組の一人だったこと。
 その彼女と一緒に今は無き、
原宿のレコオド屋で立ち話程度の出会だった。
 僕の友人だった彼女は既に、その当時のCdGを辞めて、
独りで芸能人たちのオーダー物を仕立てて営みをなさっていた。
でも、CdGの展示会用のサンプル縫製はその当時も手伝っていた。
 こんな関係性で僕はまだ、パリで'70年に、燦然と輝き始めたデザイナー
S. リキエルに憧れて、”ソニア リキエル風”な”コピーブランド”から
スタートした当時のCdGを覚えている数少ない一人である。
 このコピーの名残は、現在のCdG”トリコ”から、"COM COM"まで、
企業CdGの実ビジネスのアイテムに引き継がれているドット、ボーダー、
ジャージ素材と、赤、白、黒などの色使いがベーシック化されて、
今も健在である。

  その後、5年足らずでまた、川久保玲と再会の機会が訪れた。
この時は、すっかり彼女は容姿も変わっていたが不思議と覚えていない。
覚えているのは交わされた話と、山本耀司が同伴だったからであろうか?
もうここでは、川久保玲は”寡黙なデザイナー”に成りきっていた。
 僕がこの’84年に当時の、飛ぶ鳥も落とす勢いの二人の東京発の
ファッションデザイナーとの出会いがなければ、現在の僕は無い。
 彼らたちの好意と思惑で僕は「モードのキャピタル、パリ」を知り、
この街と人にモードを通じて以後、35年間付き合うことになった。
 特に以後、”CdGと川久保玲”へ知的に好奇心を持った”傍観者”であった。
僕のこの好奇心の根幹は、あの「S.リキエルのコピーブランドから
始まった、彼女のモードの旅路を見届ける。」であり、現在進行形である。

 ”寡黙なデザイナー”とされている川久保玲が前面に出るときには
それなりの理由がある。

 あの「ユダヤ人収容所マーク事件」の際も、彼女は矢面には立たず、
M.M.マルジェラの登場時、”パンク”に手を出し、V.Weastwoodに正された時などの、クリエーションそのものが揺らいだ時それに、別注原反在庫を
持ち過ぎた時そして、幾度かのビジネス不安定期でしかなかったであろう。
 では、今回の朝日新聞への登場はどのように”深読み”出来ようか?
このデザイナーが、このように”寡黙なデザイナー”が喋りたくなる時に指名する媒体も決まっている。新聞では「朝日新聞」、雑誌であれば、「Pen」「マリークレール ジャポン」と決まっていた。
 これらは川久保玲自身の性格に由来するものであろう。
例えば、彼女の昔を知るためには、こんな資料が見つかる。

 資料ー1/”アンアン”/8.28(No.297号/1981年発行)による。
"私生活 川久保玲"/自分の匂いのするものは他人に見せたくない。
月:新聞は朝日。「天声人語」から読む。
火:白っぽいベージュ色の部屋にグレーの猫と住んでいる。
水:岩波ホールで映画を観るのが好き。
木:シトロエンは行動範囲を拡げてくれた。
金:1台で2役をはたす電化製品は信用しない。
土:薬局で売ってる香料の入ってないクリームを使う。
日:2週間に1回、炊飯器でご飯をたく。
 現在の川久保玲の私生活は、謎のヴェールに包まれているが、
39歳の川久保は日記を公開していた、フツーの人。

 改訂された、”ウキペディア”で不明瞭な点の一つ、
 
例えば、ブランド紹介でこんな記事がある。
「慶応義塾大学の職員であった父親の関係から、同大学文学部人文社会学科で美学を専攻。卒業後は旭化成に入社し、宣伝部でスタイリストを経験し、
わずか3年で退社し、フリーのスタイリストとなる。’69年に”コムデギャルソン”のブランド名で、婦人服の製造販売を開始。ブランド名の由来はフランス語で「少年のように」の意である。1973年にブランド名と同じ、現在の「コムデギャルソン社」を設立。1975年には東京コレクションに初参加し、この年に東京・青山に初の直営店をオープンする。」
参考/イーチラシドットコム/”桃太郎のビジネスコラム 288”
☆ 前衛派アパレルの旗手☆2010.01.27号より。  

 彼女の入社当時の旭化成は、"ベンベルグ”と言う商品名で、キュプラ素材の新発売に社運をかけていた時期であった。TVにも広告を打つまでの勢いだったので、広告部はキラキラした部署だった。そんな部署をわずか3年で
退職して、自分のブランドを立ち上げたかった女性だ、と読める。
 しかし、それ以後、彼女は”キュプラ素材”が好き(?)なのであろう、
”粗利を稼ぐデザイン”として、この合繊ポリエステル素材を使いまくって
いるが、これも彼女の”育ち”である、”旭化成時代”に由来する特徴の一つ。

 また、「慶応義塾大学の職員であった父親」が外国では”教授”に
なってしまっている。これは、夫、エイドリアンが海外のインタビューの
全てを翻訳する役割を担っているので結果、このように、”教授”に
なってしまったが、国内のプレスも訂正もしないでそのまま
”知らぬ存ぜぬ”を続けて今があり、この”なりすまし”がトップを生む(?)

 改訂された、”ウキペディア”の不思議さあるいは、不自然さ?
当然であるが、ここにはそのほとんどがCdGのデザイナーになってからの
彼女のいわゆる仕事ぶりのみがその大半でしかない。取った賞や勲章などなども含められて、こんなにすごい仕事を私は一人でやってきているのです。と理解してもらわんばかりに。
 そして、この川久保玲の夫の紹介が、「夫は南アフリカ出身であり、コムデギャルソン・インターナショナルのCEOを務める。」であり、彼の名前もいつ入籍したかも明記されていない。ホテル リッツで宴までやっているのだが、これも不思議である。
 僕の記憶では、川久保玲は、1992年にイギリス人のエイドリアン・ジョフィーさんと入籍しました。彼は1987年に営業担当社員としてパリのコムデギャルソンに入社して、現在は,CdG・Int.のCEOに就任しています。「いわゆる、”社内結婚”で、社長と社員が結婚した。」ということですが、しかし、彼はこの世界では当たり前の「同性愛者」であり、彼らは「ビジネス婚」を図ったのです。この後、夫はこの立場を利用し、よりユダヤ人コミュニティを展げ、川久保玲も堂々と、彼らのファッションユダヤ人コミュニティへ
自らの力を携えて、ブランドエクイティにし進化発展させ、現在がある。
 妻が夫を認めた直接的なるは、夫がディレクションした、「香水事業」と「ゲリラショッププロジェクト」であり、その後に起きた「ユダヤ人収容所ユニフォーム事件」の後処理の程度のうまさを認められたからであろう。
 この事件以後、海外におけるデザイナーインタビューは国内とは違って、そこそこ受けざるを得なくなり、夫が全て通訳に徹している。
が、ここで、国内のプレスと海外でのインタヴュー内容の帳尻が合わないことも現実となって表層化する。これらの積み重ねが、大きな”なりすまし
構造”になってしまったのが現在の「寡黙・パンク・反逆」をウリとする
”実態としての川久保玲あるいは、CdG”であろう。

 アンアン1981・1・1/11合併号(No.275)
編集後記「オ・キャフェ」より。
「anan ELLE 提携10周年記念パーティー

アンアン創刊以来初めての大パーティーが帝国ホテルで行なわれた。
 これだけのファッション・デザイナーが集まったのは、最初で最後では
ないだろうか?金子さんとユリさんの2ショットもあり、主な出席者は以下の通り。金子功、立川ユリ、堀内誠一、長沢節、石津謙介、森英恵、
吉田大朋、川村都、荒牧政美(太郎)、花井幸子、松田光弘、
コシノジュンコ、稲葉賀恵、三宅一生、山本耀司、川久保玲、鳥居ユキ、
小暮秀子、吉田ヒロミ、高田喜佐、田村哲也、フランソワーズ・モレシャン、桐島洋子、犬養智子、原由美子。そしてELLE編集長エリアーヌ
・ビクトール、編集者カトリーヌ・ルソー」

 この顔ぶれを見ると、当時のパリに憧れを持っていた日本のファッション
デザイナーたちや写真家、スタイリストなどこの業界人たちの仲間入りしている川久保玲の素顔がある。

  山本耀司の存在がなければ、 
多分、川久保玲は山本耀司と恋仲になり、信じ合う、語り合える何かが
お互いにあり得たために、現在の”川久保玲”が生まれたのであろう。
(彼らが出会ったのは案外早く、お互いが”セツ モード”に半年ほど通っていた時期があった。)
 彼らのこの関係性がなければ彼女の全ては否、成れなかった。
なぜならば、当時、お互いの”夢であり、目的”であったのが
「パリのデザイナー」だったからである。そのために、「カラス族」という社会現象までを起こし、メディアを利用し、それぞれが儲けて資金を調達し、語り合った多くの時間のために、”二人三脚”の旅へ出たのが、まず、
’81年だった。そして、翌年から本格的にパリで, ”Fammeコレクション”を行い始めた。
 しかし、この実話も改訂された、”ウキペディア”には無論、省略されている。

文責/平川武治。
初稿/2012年3月9日。


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