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いっぱい誤認しているのかもしれない

図書館で「今日返ってきた本コーナー」に並んでいた本を借りた。

マルクス・ガブリエルの哲学 ポスト現代思想の射程菅原潤』/分類134.9ガブ/

どなたの趣味かな。むずかしそう、けれど読みはじめる。なるほどとわかったような部分もある、でもわかった気になっただけでそれ間違っているかもしれない。これは私の覚え書きのメモとして。


可謬性の客観性

それゆえ知覚は、本質的に事実の知覚である。われわれの知覚するものは多少の形而上学的操作を通じてたまたま同じ場所に認められたバラバラの個々の事物ではなく、個々の事物を張りめぐらした事実である。それゆえ知覚は事実である。概念的にコード化されたイメージを言語的に提示することで事実性が発生するのではなく、知覚の特質そのものが事実性なのであり、命題的構造を知覚に「裏返す」ことで事実性が獲得されるわけではない(2020b 324)。

マルクス・ガブリエルの哲学菅原潤』可謬性の客観性 91頁より

哲学の文章は○○的、○○性、○○主義、○○論等々がいっぱいでわかりにくい。

むずかしいよ

読みも意味もわからなかったので調べてみる。

形而上学とは?(而=ジ ニ しかして しかも)
感覚や経験を超えた世界を追求、思考や精神などの目に見えないものを追求する学問らしい。

可謬性とは?(謬=ビュウ ミュウ あやまる)
人間の能力には限界があるから知識についてあらゆる主張は原理的には誤ってしまうという哲学上の説らしい。

錯覚と誤認

フィクション的と空想的の話から「錯覚」と「誤認」は異なるといい、錯覚を理由にして知覚の疑わしさを結論付けるのではなく、誤認は「事実の知覚」に立ち返ることで改定可能だという。
こういうことだろうか?そこに「幽霊がいた」という事実の知覚を立ち返ってみるとそれは柳だった。そこの「柳が幽霊に見えた」という錯覚だった。それは誤認だった。だけれどそれを責めるべきではないと言っている感じかな。誤認逮捕みたいな?誤認逮捕はダメ。

芸術の自律性

「ロダンの考える人」はブロンズ像であって考えることはない。鑑賞している人間が考える人になって考えるというような誤認が生じると。芸術作品を鑑賞するには見ている人がパフォーマンスをしなければならない等々。芸術的フィクションについてあれこれ考えると面白い。美なのか毒なのか。

そんな風に個々の事物を見て感じていく哲学って自由って思う。脳内は自由自在。行ったり来たり同じところを何度も読み返し、読み飛ばすも自由だよね。

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