見出し画像

『ゴンドラ』:1987、日本

 青年の良はゴンドラに乗り、高層ビルの窓を拭く仕事をしている。オフィスで働く男女に視線を向けた後、彼はゴンドラから町を見下ろす。小学5年生のかがりは学校のプールで授業を受けている最中、初潮を迎えた。プールサイドで座っていた彼女が股から血を流していると、同級生が気付いて担任教師を呼んだ。
 保健室で休んだかがりは学校を出て薬局に立ち寄り、生理用を購入した。彼女が帰宅すると、母が化粧をしていた。出掛ける母に、かがりは初潮のことを言わなかった。かがりは水着を洗濯し、レコードを掛け、駕籠から出した文鳥のチーコを指に止まらせた。ピザを食べて就寝した彼女は、嫌な夢を見て目を覚ました。

 翌日、良はビルの窓を清掃し、レストランで食事をしていた外国人客が嫌がったので店員がカーテンを閉めた。かがりはプールの授業に出席するが、他の生徒とは全く言葉を交わさなかった。彼女はクラスメイトの陰口に気付くが、無視を決め込んだ。
 彼女が帰宅すると2羽の文鳥が激しく争い、チーコが大怪我を負った。窓拭きの作業をしていた良は部屋を覗き込み、かがりと目が合った。彼はかがり動物病院に連れて行き、チーコを診てもらった。獣医はチーコを処置し、酸素テントで様子を見るため預かった。

 良がアパートまで送り届けようとすると、かがりは反抗的な態度を取った。良は治療費を負担するつもりだったが、かがりは「明日払う」と主張した。彼女はアパートまで一緒に行くことを拒み、良を置いて走り去った。良は自分が暮らす安アパートに戻り、田舎から送ってきた荷物を開けた。
 翌朝、かがりは貯めていた小遣いを集め、アパートを出た。彼女が動物病院に行くと、チーコは死んでいた。かがりはチーコの入ったケースを獣医から受け取り、廃屋へ走った。彼女は缶を取り出し、中に入れておいたハーモニカを吹いた。

 かがりは良の仕事現場へ赴き、「ちょっと足りないけど、これだけ返すから」と金を渡した。かがりが走り去ると、良は後を追った。夜、かがりは両親が離婚する前に住んでいた団地の近くへ行き、公園にチーコを埋めようとする。
 「手伝う?手伝わない?」と問われた良は、穴を掘る作業を手伝った。だが、かがりは「やっぱりやめる。ここにはもう帰れないから」と言い、チーコをケースに戻した。かがりは「チーコがどんどん腐ってる」と言い、死について良に尋ねた。

 かがりは良と歩きながら、次々に質問を投げ掛けた。良は彼女に、3年前に青森の下北半島から上京したことを語る。かがりは良に、持ち歩いている音叉を見せた。「帰りたくないな」と呟いた後、彼女は「これ、あげる」と音叉を良に差し出した。
 帰宅したかがりはチーコを弁当箱に入れ、冷蔵庫で保存した。良はアパートに戻り、木の船を作った。れい子はチーコの死骸を見つけて悲鳴を上げ、ゴミ箱に捨てた。それを知ったかがりは、母を激しく責め立てた。

 かがりはゴミ捨て場を調べ、チーコの亡骸を発見した。彼女は土砂降りの中で傘も差さず、駅の前に立って良を待った。良はかがりを自分のアパートへ連れ帰り、ホットミルクを出した。
 かがりが家出してきたと知った彼は、「まだ電車はある。一緒に行ってあげるから、もう帰ろう」と促した。しかし、かがりは「もう帰るとこなんて無いもん」と嫌がった。良は布団を敷いてかがりを眠らせ、彼女が描いたビル清掃の絵を見た。

 翌日、良はかがりを電車に乗せ、故郷の漁村へ向かった。かがりの質問を受けた彼は、父が漁師をしていたこと、今は病気で働けないこと、母が市場へ魚を売りに行っていることを話す。窓の外に目をやった彼は、魚が獲れなくなってから父が酒ばかり飲んで暴れていた過去を回想した。
 帰宅した良は、母に休みを貰ったと告げる、かがりについて、彼は「社長の娘で、夏休みなのに行くとこが無いって言うから、連れて来た」と説明した。病気の父は左半身が麻痺し、まともに話すことも出来ない状態だった。かがりは良たちと夕食を取り、彼の母と一緒に入浴した。彼女は良の母に浴衣を借り、良の隣で眠りに就いた…。

 監督は伊藤智生、原案 脚本は伊藤智生&棗耶子、プロデューサーは貞末麻哉子、撮影は瓜生敏彦、照明は渡辺生、編集は掛須秀一、録音は大塚晴寿、音楽は吉田智。

 出演は上村佳子、界健太、木内みどり、佐々木すみ江、佐藤英夫、出門英、鈴木正幸、長谷川初範、奥西純子、木村吉邦ら。

―――――――――

 現在はアダルトビデオ監督として活動しているTOHJIROが、本名の「伊藤智生」名義で撮った唯一の一般映画。かがりを上村佳子、良を界健太、れい子を木内みどり、良の母を佐々木すみ江、良の父を佐藤英夫、かがりの父を出門英、獣医を鈴木正幸、かがりの担任教師を長谷川初範が演じている。
 この作品、1984年から自主映画として制作して2年後に完成したが、国内での上映には至らなかった。しかし海外の映画祭に出して評価され、1987年10月の特別先行上映も好評だったことを受けて、1988年に劇場公開された。しかし借金が残ったこともあって伊藤智生はアダルトビデオの世界に入り、2001年には「ドグマ」を設立した。

 伊藤智生監督は映像表現の部分で、色々と凝ったことを盛り込もうとしている。良がゴンドラから町を見下ろすと、海が重なる。かがりが生理用品を買って歩き出すと、目の前の景色がユラユラと揺らぐ。また、かがりが何度も見る両親の夢は、幻想的な内容になっている。
 父が道路に大きな楽譜を書き、それを清掃車が消す。両親が口論する中で、メトロノームの動きが速くなる。皿が割れ、何匹ものクモが這う。たぶん、かがりと良の心象風景を描いているんだろう。でも、そんなに成功しているとは思えない。いかも青臭いと感じるし、粗削りな部分も目立つ。

 かがりと良は賑やかな都会の片隅で、日の当たる道を歩けずにいる。歩きたくても歩けないという事情はあるが、そもそも性格的にも無理なのだろう。2人は希望の光も見出せず、閉塞感の中で生きている。喧騒には馴染めず、幸せとは程遠い場所で孤独を抱えている。
 かがりと良の置かれている環境は、大まかに言うと似ている。だからこそシンパシーを感じて、一緒に行動するようになるのだ。ただし置かれている環境に対する捉え方は、かなり異なっている。

 良は上京して友達もしない中で寂しさを感じているが、孤独に慣れてしまい、それを半ば諦めて受け入れている。そこから抜け出したいという願望さえ、完全に失っている。しかし彼は変な形で性格が歪んだりせず、優しい気持ちを持ち続けている。
 一方、かがりは無感動な日々を粛々とやり過ごしているが、孤独は苛立ちに転化している。その苛立ちをぶつけるのに適した場所も無く、そういう意味では諦念を抱いていると言ってもいいだろう。

 この映画が持っている魅力の大半は、上村佳子の存在にあると言っても過言ではない。その表情や眼差しから伝わる虚無や諦観が、映画の雰囲気を作り出している。ただし、それは「優れた演技」ということではなく、たぶん素の上村佳子が持っていた資質なんだろう。
 演技として優れていたのなら、その後も映画やドラマで名子役として活躍してしてもおかしくないはずだ。しかし彼女は本作品に出演しただけで、以降は芸能界と全く関わっていない。きっと幼少期の上村佳子が放った一瞬のきらめきが、本作品にあるのだろう。

 かがりは良が動物病院へ連れて行ってチーコを獣医に診せてくれたのに、礼も言わないどころか生意気な態度を見せる。親切にされたのに反抗的なのだが、それは決して良を嫌悪しているからではない。ちゃんと感謝しているが、それを素直に表現できないだけだ。
 周囲の人間を拒絶して暮らして来たので、優しくしてくれた良に対する接し方が良く分からないのだ。親からの愛を充分に受けられず、そのせいで世間に対する不信感が強くなり、人との関わり方を見失ってしまったのだ。

 かがりは捨てられていたチーコの亡骸を発見した後、大雨に濡れながら駅前に立ち続けて良が戻るのを待つ。良が気付いて話し掛けると、彼女はじっと見つめる。この時の彼女の目が、心を鷲掴みにする。
 それまでは世間を恨んでいるような、ねじまがった心を思わせていたが、そのシーンでは明確に助けを求めていることが分かる。少女の弱さ、脆さが伝わる。良じゃなくても、「助けてあげたい」という気持ちにさせる説得力がある。

 上村佳子は当時、引きこもりの小学生だった。伊藤智生監督は彼女と出会ったことがきっかけで、この映画の製作に入っている。撮影を通じてスタッフや共演者と触れ合う中、上村佳子の気持ちは少しずつ変化していったらしい。
 作品は順撮りなので、かがりの表情や態度が前半から後半に向けて少しずつ変化しているのは、上村佳子が少しずつ心を開いていったことがダイレクトに反映されているのだろう。その自然な変化が、かがりというキャラクターに魅力を与え、この映画に説得力をもたらしているのだ。

(観賞日:2020年7月18日)

この記事が参加している募集

おすすめ名作映画

映画感想文

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?