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『歴史としての二十世紀』 高坂正堯

ひとり遅れの読書みち     第11号

     国際政治学者として著名な高坂正堯京都大学教授が、1990年に行った6回の講演録である。ベルリンの壁が崩壊しドイツが統一されるという、まさに現代社会の「大きな転換点」にあたる時期だった。
    「歴史としての二十世紀」がどうだったのかを整理して、我々がどのような時代に生きてきたのかを考察し、さらに今後どう進むべきかの指針を示す。
    高坂は戦争、恐慌、共産主義、経済発展、大衆、文明などについて論じているが、中でも「最大のテーマ」になると考えたのは、今後ますます増える「異文化との遭遇」だろう。
    「イデオロギーの対立が終わり、ヨーロッパ世界から生まれた政治体制の問題に一応決着がついた後、21世紀には、どんな多様性があり、どういう生き方が世界と共存できるか」についての見解を明らかにした。
    異文化理解については、経済協力や国際貢献の必要性が叫ばれるが、「人間は理解だけで済むほど簡単ではない」「理解しているつもりで、あの国はこういう欠点があるからと冷たくするケースも考えられる」「わかっているつもりが誤解だった」「こっちは向こうのことをわかっているのに、向こうはこっちをわかっていないと言いだす」など、様々な問題を含んでいる。
    高坂は、重要なことはひとつでもいいから他の国の文化を「好きになる」ことだと強調する。「変わり者」と見られても、ある国を好きになり、その国の文化のために何かしら尽くすことが大事だと語る。「個人的に冒険精神を持って、世界のあちこちに出かけていき、福祉や文化活動をして、そこの文化を本当に好きになって現地に根を」下ろす人だ。
    日本人は「気が小さくて良心的」「ずば抜けて偉い人はいませんが、自分の小さな仕事の領分できちんと責任を果たす点で良心的です」と分析、そうした中で「変わり者」が活動するチャンスを得ることを期待する。

    また、今日もウクライナやガザで戦争が続いているが、高坂は「すべてを戦争で解決することは不可能であり、最終的には外交により調和点を探していくしかない」と指摘している。
    第1次世界大戦で始まった20世紀。ドイツの軍人たちは「早く戦争を決着つけることができると自信満々」だった。兵力を増強しそれを戦場で集中的に運用し相手を打ち負かすことを最優先した。今も変わらない。
    しかも当時、政治家たちは「平凡な人間」ばかりであり、軍人に異議を唱えることが出来なかった。ベートマンホルヴェーク(独首相)やグレイ(英外相)は、ヒトラーやスターリンのように強い権力意識を感じさせない「いい部類の人間」だった。しかし「弱かった」と見る。

    一方、経済発展については、確かに富は増えたが、人間を幸福にする「青写真」を描けていないとして、不平等や貧富の差の解消に課題が残っているとする。ただ、福祉国家を目指すことが経済成長の原動力になっていることは確かだと認めるものの、「個人責任の原則が疎かになるきらいがある」として福祉の「行き過ぎた制度」には懐疑的である。

    またアメリカについては、「もともと政治の中で軍隊の果たす役割が小さい国」「各々が自由でバラバラに行動しながら全体でバランスを保つ政治形態」だったが、「軍の予算が増えすぎることで国力が削がれてきた」と指摘。とりわけ80年代レーガン政権が「減税と軍備増強」を同時に進めたことに批判的で、財政赤字を大幅に増やし国の活力を弱めたと述べる。
    イスラエルについては次のように危惧を明らかにしている。「ユダヤ人は偉大な民族ですが、国をつくると狂信的でありすぎるのかもしれません。現在イスラエルが中東でやっていることを見ると、気が気ではありません」「100年、150年後には、また国がなくなるのではないかとさえ感じてしまいます」

    高坂の講演は約30年前のものながら、現在の国際情勢を理解するうえで、いくつもの重要な視点を提供している。また我々の生き方、国家のありようにも警鐘をならす。歴史や文明についての幅広い知識と深い洞察を踏まえた良書と言えるだろう。

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