信じて。選んで。演じて。

だいぶナーバスになっていたと思う。
怒られた、というよりは、過去に怒られたことを思い出して、相変わらず成長しない自分が悪いのだろうと思ったり。自分が当たり前と思っていることを他人に非難されたり、されたように感じたり。直接自分に言われていなくても、傷つく言葉というのはありますよね。私の場合は大抵、被害妄想と言われるのだけれど。

他人の言葉に影響されて、不安定になって。自分だってここにいるし、間違っていないはずだと思いたくて、人に話しかけて。上手くいかないと、自分がここにいることが間違いで、発言なんてムダでしかないように思えてきて。
私の言葉が届いているのか、そんなものに価値などあるのか、と不安になる。言葉も、文字も、感情も、私の存在すらも、すべてが透明になってすり抜けていくのではないか、と。

…でも、優しい人はたくさんいるのですよね。私の言葉を受け取ってくれる人は。画面越しであっても、他人には見えない存在であっても、友人や身内ではない他人であっても、優しい人はいると思う。

最近になってようやく、自分で自分の首を絞めていることが分かってきました。彼らが心配そうな顔をしているとき、不思議そうな目で私を見るときは、気にしなくても良いようなことに囚われているのだと。

私のことを間違いだと言う人間がいて、私に優しくしてくれる人がいる。それならば、優しい言葉を信じても良いはず。そもそも、否定的な意見ばかりを鵜呑みにする理由もありませんでしょうし。

…とはいえ、心のどこかには、私はいつも間違っている、私の選ぶものは自分に都合の良いものでしかない、という感覚が残っている。
過去にしなかったことに対する後悔や罪悪感。それを引きずって、今の自分がこうして笑っていていいのか、満足そうにしていいのか。そんなことが認められるのか、許されるのか…
そんなことを思ってしまうのは、きっとそのせい。

そしてその根底には、子供時代の影響があるのだろうな、と思うのです。
恩があるのだから、身内や年上には感謝しろ、腹を立てるな、とか。そんなこともできないのに偉そうにするな、とか。過去それをしなかった人間に今これをする資格などない、とか。
そんな刷り込まれた言葉や、そこから生まれた偏った考えが、私を苦しめているのではないか、と。
 
刷り込みと分かっているのならば、そこから抜け出す方法を考えれば良いのですよね。
私の本質に間違いなどない。否定される理由もない。私は、自分の演じるものを選ぶだけ。
その場に、相手に合わせて、自分の振る舞いを変える。選んだ姿を演じる。それだけのこと。

気取って見えるかもしれないけれど、そうやって何かのフリをして、何かを演じて生きるのは、案外楽しいのですよ。シナリオの中に生きるようで。
…まっとうに生きていない、と言われたことはありますけれどね。でも、自分ではない人間のフリをしていれば、私は傷つかないから安心です。それに、本当の私なんて、誰にも分からないのだもの。自分自身にだって、ね。

やはり、誰かから見たら私の選ぶものは、不真面目であったり、不完全であったり、間違って見えることもあるのでしょう。
それでも、道を選ぶのも、進むのも私ですから。
もちろん不安もありますけれど、それでもその道を進むべきなのだろうと思うのです。
我が道を往く彼に、私は憧れたのだから。
確かに、一般には褒められたものではないでしょうけれど。ただ、日陰も日向も、穏やかな顔で前を見て進む彼は、いつ見ても素敵だから。

不安も緊張も糧にして。
過去に、家に、この場所に囚われずに。
もう少しだけ自由に、羽を広げて生きていきたい。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?