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海外青年協力隊に行った人の話②

前回のお話はコチラ↓
https://note.com/tasty_holly769/n/nf22df246fcb0


2人目は高校の時の社会の先生。


直接教わったことはなかったけど
優しそうな雰囲気で
とてもサバイバルな感じの人には見えなかったが
無事に2年ほどの任期を全うし
再び教師として舞い戻ってきた。


パラオに行っていたから
みんなからパラちゃんパラちゃんと呼ばれ
その貴重な経験に奢ることなく
等身大の姿で慕われてる方だったと記憶している。


また行けるなら行きたいか?
という生徒からの質問に
また行きたいと答えるほど彼にはしっくりきた任務だったようだ。


3人目は社会人になってから英会話スクールに通っていた時に同じクラスだった女性。


私が出会ったときは任期を終えて日本に戻ってきて数年が経った時だった。



彼女からは実際に現地で起きた話を聞いた。



海外青年協力隊は、派遣されることが決定した後
日本で研修をしてから現地に向かう。


研修では
貧困やインフラが整備されていない土地にいる恵まれない人たちの力になるように
日本の技術を役立てよう!!
という共通のマインドを育んでいく。



彼女もまた、
恵まれない人たちのために
自分のできることを精一杯やって
一人でも多くの命を救うんだ!
世の中を良くするんだ!
という使命感で日本を飛び立った。


彼女は東南アジアの国のとある村に派遣された。
そこでは水のインフラ整備に関わる業務にあたる予定だった。



意気揚々と村に到着し、
村人たちの期待に答えなくてはと使命感に燃えていた彼女は驚きの光景を目にする。



村人たちは誰一人彼女を歓迎しなかったのだ。


「勝手にやってきて何なんだ、誰が困ってると言った。」
と突然侵略者がやってきたような扱いを受けた。


聞いていた話とまるで違う状況にあ然とした。
言葉もよく通じない、電波もなく誰にも頼れない状況に
彼女は初日から心が折れそうになった。


水道整備の作業は村人も一緒に行うと聞いていたが、作業初日に村人は誰も作業場に現れなかった。



とりあえず来たからにはやるしかないと
1人で孤軍奮闘する期間は3ヶ月にも及んだ。


ここが彼女のすごいところなのだが、
3ヶ月もすると心細いからだんだん怒りに変わっていくらしく、
なんで誰も手伝わないんだと次第に彼女はイライラしていった。


だが、イライラしたところで協力してくれるわけではないし
無理やり手伝ってもらうこともできない。


もういっそ投げ出して帰ってしまおうかとも思ったが、
家族から反対や心配をされながらもやって来たのにわずか3ヶ月でいそいそと帰るわけにはいかない。
どうしたもんかと考える日々。


しばらくすると考えるのもアホらしくなり
もう任務はいいや、知らない!
そっちがその気なら、こっちは旅行で来たような気分で暮らしてやる!と思い立った。



そう、任務を諦めたのだ。



仕事熱心で真面目な日本人にはあるまじき行為だった。



彼女は元々旅行好きで
アフリカや南米なんかも1人でバックパックを背負って赴き
現地の人と仲良くなるのが
めちゃくちゃ得意な人だった。



任務を一旦横に置いた素の彼女は
水を得た魚のようにこの場を楽しみ始めた。



いつも旅に出た時は現地の人たちの暮らしや考えに触れることを楽しんでいる。



じゃあ、ここでもそうするしかないだろうと
村人の生活に入り込んでみることにした。



彼らの畑仕事を手伝い
洗濯などの家事を一緒に行い
どのような生活をして
どのように考えて生きているのか


暮らしに触れるたび
今まで距離が遠かった「村人たち」が
「理解したい友人」になったのだ。

すると
皆それぞれに仕事があり
とても水道整備をやる余裕なんかない状況だったこと
そもそも水のインフラが整っていないことが
当たり前で暮らしているから
それで困っているという認識がないということ
勝手に私たちが彼らを貧しい人というレッテルを貼って見ているということ
がわかったのだ。


勝手に恵まれない、困っている認定をして
キレイな水が使えるように整備してやるから手伝えって言う奴が急に来るなんて
本当にただの侵略者じゃないか。


現地の人たちからしたら
とんだお門違いも甚だしいわけだ、、
と彼女は感じたという。


そのまま月日は流れ、
任期終了まであと2ヶ月になったころだった。


相変わらず水のインフラは整備されていないが、
村人たちとはすっかり打ち解けて
子どもたちももうすぐ日本に帰ることを
とても悲しんでくれていた。


そんな中リーダー各の人が
「ところで、あなたはやることがあってきたんでしょ?
私たちの手伝いが必要なんだよね?
あなたの言うことなら、手伝ってあげてもいい」
と声をかけてきたのだ。


思ってもみない出来事だった。


本当に任務のことなんか忘れて
皆と同じように寝て起きて畑仕事をして
食べて遊んで歌って…と暮らしに徹して
一言も彼女からインフラ整備に関わる話はしなかったのだから。


そこから色んな人の力を借りて
急ピッチで作業は進んでいった。


が、しかし
始めた時期が遅かった。
作業ができた期間はわずか2ヶ月。


2年分の時間は2ヶ月では埋めることは叶わず
作業途中で彼女は帰国の日を迎えた。


また海外青年協力隊としてこの地にやってきたい!
と思ったものの、
派遣される場所は自分で選べるわけではないため
この続きがまたできるとは限らない。


家族への負担や
自身の体力なども考えて
彼女の海外青年協力隊の日々は終焉を迎えた。


しかし、この濃い2年は
彼女の人生に大きな気づきを与えた。


私がこの話を聞いた時も
ついこの前の出来事のように
目をキラキラ輝かせながら教えてくれた。


私たちは彼女の立場でこの出来事を捉えることもできるし、
現地の人たちの目線でこの出来事を見ることもできる。


会社でいうと
本社と現場のズレという感じに近いと思うし、
キャリア組で入ってきた後輩上司と古株のような関係値だろうか。


私はこの話は
遠いどこかの国と日本というだけじゃなくて
自分の生活圏内にも十分起こり得ることだと思う。


実際、仕事で行き詰まった時には
この話がふと頭をよぎる。


海外青年協力隊という
恵まれない人たちを救うプロジェクトは
一方的に何かをするのではなくて、
あくまでも
それぞれの環境、状況、思いを
ちゃんと尊重して
人と人が心でつながって初めて
できることなのだと思う。


こういった実体験が生かされて
研修の内容が見直されて
さらに素晴らしいプロジェクトになっていることを願ってやまない。

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