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「子供欲しくない」にどうして辿り着いたんだっけ


◇「子供を持つ」と言う常識

おそらく、「子供が欲しい」と感じたことはない。
中学生の頃、同級生と「将来結婚して旦那が〜子供が〜」などと軽口を叩いたこともあるが、あれは自分の望みというより、通過儀礼として「そうするもの」と思っていたのだろう。


勉強が嫌いでも、勉強をして学校に行く。

働くのが嫌いでも、就職して働く。

当時の私にとっては、子供を持つこともこれらの慣習と変わりなく、当然の行いとして価値観に擦りこまれているに過ぎなかったのだ。

しかし、その刷り込みや世間に対して、今の私は「子供は欲しくない」と自覚している。



◇気持ちの変遷と結論

この気持ちは、何回かのターニングポイントの中で確立されていったものだと考えている。

出来事を列挙してみると、以下のようになる。

①自分と親を振り返った時
②毒親本を読んで、子育て無理と思った時
③従兄弟が結婚したときの親同士の会話
④そもそも生まれてきて良かったと思っていないことに気づいた時


番号は時系順なのだが、見出しをつけたらこんな感じだろうか。

①自覚、刷り込みからの目覚め
③受け継がれる虐待の仕組みを知る
②嫌悪、気持ちの強化
④根本への気づき


「子を持ちたくない」という思いには複数の要因が絡んでいて、一つの理由を挙げることは私には不可能だ。

しかし、1番根本的な理由は「④自分が生まれてきて良かったと思ってないから」なのだと思う。

自分が生まれてきて良かったと思ってないのに、そんな親の元に生まれ、挙句育てられる子供は可哀想だ。

だって、そんな子供が「生まれてきて良かった!人生楽しいハッピー♪」みたいな人間に育つとはとても思えない。
(自分と母を振り返ってもそう)

なら、わざわざ可愛かろう子供を地獄に送り出すこともあるまい、と。

もちろん、世の中には、虐待や毒親・機能不全家族の元に育ちながらも、それらを断ち切って子育てしている人たちもいる。

しかし、私は自分がされたことをきっと子供にもやるのだろうし、受け継がれる育て方に死ぬまで抗ってまで子育てしたいと思わないのだ。



◇気持ちが確立されていく過程

各ターニングポイントについて、具体的な出来事を書く。


①自分と親を振り返った時

経緯は忘れたが、ネットで「子は当然持つべき・持ちたくないは若者の甘え」という意見の人たちの投稿を読んでいた時、「親が自分を育ててくれたことを思い返せば、子供が欲しくなるはずだ。」という趣旨の発言があった。

私は、この言葉を見て、自分の過去から現在を振り返り、そして「ああ、私は子供が欲しくないんだ」という気持ちを初めて、明確に、確かに、知ったのだった。

元の発言としては、「自分の親子関係を振り返れば、その尊さに気がつくはず」というものだと思う。
しかし、振り返ったことによって、私は自分と親との間には、喜びや尊さ、心温まる何かなどないことを認識してしまったのだ。

この時、自分には根本的に「子供が欲しいという感情」がないことを自覚した。


②毒親本を読んで、子育て無理と思った時

ここ10年くらい?毒親についての本、ひいてはエッセイがとても目につくようになった。
走りとしては、田房永子著の「母がしんどい」辺りなのだろうか?

図書館でこの本を手に取り、それから毒親を扱った本を読むようになった。
そして、親もまた親から不適切な育児を受けただろうこと、親もまた苦しみの中にいることを知った。

子を持てども、親も子も地獄。
そんな生活は勘弁だと、親と同じく自分にも子育ては無理だと感じた。


③ 従兄弟が結婚したときの親同士の会話

ある時、年上の従兄弟が結婚した。
息子を持つ母親同士、私の母と従兄弟の母が結婚相手の女性について話していた。

詳細は覚えてないが、まぁ、あまり良い内容ではなかった。それに対し、私は「なぜそんな風に言うのか」と聞いた。

その時の返答が
「だって母親だもの。そういうものよ。」


気持ちが悪かった。
息子は息子であって、貴方の男でも所有物でもない。
そうやって己の気持ち悪さを自己正当化しなければやっていられないのが母であり女なら、私はどちらも要らない。 

女性であることに所以するだろうその生々しいあり様に、強い嫌悪感を覚えた。


④そもそも生まれてきて良かったと思っていないことに気づいた時

これは上ですでに書いた通りだ。
追記するなら、(自分と母を振り返ってもそう)の部分だろうか。

おそらく、母も「人生楽しい!生まれてきて良かった♪」と思っているタイプではなかろう。自分の生や選択が不安だからこそ、子供に自分の人生は間違っていないと肯定して欲しがっているのだ。

なんなら、一度直接的に聞かれたこともある。
「〇〇は生まれてきて幸せ?そう言ってくれないと私困るんだけど…」と聞かれたのである。(前後の話の流れは忘れた。私は本当に過去の記憶が曖昧だ。)

子供に”正解”を強要すんなや

とか、

くだらねーこと聞くなや

と思ったので鼻先で笑いつつあしらってしまったのだが。
母も自分の人生に安定した自信がないのだろうな、と思った出来事だった。



「子供は持ちたくない」に至った変遷を振り返ると、まぁ、こんな具合である。

最初の気づきから、同じ境遇にいる人や自分の身の周りにいた人への理解が深まるにつれ、自分の意思が確立してきたのだな、と。



前に、どこかのネット掲示板で「子供が欲しいと思った理由」というトピックがあった。そこへの投稿を読んで、「欲しい理由は曖昧・あってないようなもので、持ちたくないという気持ちに多くの理由があるのだな」と感じたことを覚えている。

「持ちたくない理由」というテーマに対しては、私のこの記事よろしく、みんな様々な内情を語る。

しかし、前述のトピックでは、「夫の子供が欲しいと思った」「結婚したら産むものだと思った」「家族が欲しいと思った」など、もっと単純でシンプルな話が多かった。


生き物としては子孫繁栄が本能にあるわけだから、この在り方は道理なのだろう。

でも、自分の心の有り様に気づかず、「子は持つべき」という刷り込みのまま、親になる人もいるのだろうな。私の母のように。


「子を持ちたくない」はネガティブな意思かもしれないが、私は私の気持ちを知り、それをきちんと確立してきている。

それを思えば、自分にとっては悪くない選択だと思うのだ。

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