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「頼られると嬉しい」が分からない


人は、頼られると嬉しいらしい。これが分からない。

思うに、昔から自分の意思や気持ちとは無関係に役割を押しつけられ、辛い思いをする経験が多かったことが理由ではないかと思う。

◇「頼られると嬉しい」という一般論が分からない

家庭内でいえば、私は、母から自分を支えろ理解しろ優しくしろと”頼られて”いたのだろうし、結果自立してしっかりするようになった。

そのせいか、「しっかりしているから」と学校生活でもリーダーやら取りまとめやらをやることが多かった。「やってよと言われ断れず」「教師から任命され」「他の人がやらないので仕方なく」など色々あった。

「自分はやりたくないし、こいつに任せておけば大失敗はしないだろ」という按配で任されるのである。


側から見れば、ただの仕切りたがり屋に見えるのかもしれない。しかし自分からすれば、仕方なくやっているだけである。(断ることもあったが断れきれないこともあった)

やりたくもないし、精神的な負荷やストレスを覚えることが多かった。

◇良いように使われるだけじゃね?という疑問

「頼りにされる」という言葉から私が連想するのは、「腹正しい」「嬉しくない」という気持ちである。

-腹正しい----------------------
私にとっての”頼りにされた”経験は、「自分の意思や気持ちとは関係なく役割を全うするよう求められること」であった。

ただ自分にとって都合よく働いてほしいだけなのに、「頼りにしてる」「あなたを評価してのこと」と言われても、少しも嬉しくなかった。
そんな一言で私の苦痛やストレスをねじ伏せるんだと思ったし、私は道具扱いされているように感じていた。
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-嬉しく-------------------------
思うに、「頼りにされて嬉しい」という反応は、「自分は必要とされていないのでないか」という不安からくる気持ちなのではなかろうか。人に頼りにされるとそれが払拭するので、嬉しいと感じる、と。

私は、恐らくそれらの場面をどうにかする程度の能力はあるのだろうし、任されると嫌でも手を抜いたり放棄したり出来ない。
結果として、役割を全うしてしまう。

こういったことが繰り返されたので、「自分は必要とされていないのでないか」という不安には乏しいのでないだろうか。何かしら”必要”とはされていたのである。

しかし、健全な求められ方だったのかは疑問だ。
家庭内では「親子の立場の逆転」が起きていたし、実際、私は「頼られる」事への嬉しさや喜びを感じられていない。
頼りにされたとて何かを払拭できるわけでもない、ただ面倒ごとを押し付けられた…と感じている。
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◇なぜ嬉しくないのか

ここまで分析してわかったが、私が嫌なのは「頼られる事」ではなく「頼りにしているという言葉で、自分の苦痛やストレスが軽視されること」なのだろう。

例えば、強いストレスが発生しない頼り事(仕事で分からないことを質問される等)はまったく問題無かった。「道端で道を尋ねられ、場所を知っていたから答えた」くらいの重さだったからだ。

頼りにされストレスが発生している時、誰かに相談したり愚痴を言うと「頼りにされてるのよ!」「評価されてるのよ!」と”慰められて”しまう。
正直、「そりゃ嫌ね。しんどいねー」と言ってほしい。

この経験を重ねることで「頼りにされる = 辛い気持ちを無視され、都合よく役割を求められること」という図式が、私の中で出来上がってるのでないか。

◇なぜ自己肯定に繋がらないのか

友人に愚痴として前述の話をした時、「私は人から『任せられる』と思われないので、逆に羨ましい」と言われたことがある。
これも、一理ある気持ちであろう。

そう、「任されたことができて偉い!」「自分には価値がある!」と捉えることも可能なはずなのだ。

なのに、なぜ自分の能力が自己肯定感に繋がっていないのだろう?


「道具扱い」といったが、前提として、私はこれらの能力は自分のためのものであり、人のための物ではない、と思っているではないだろうか。

任された以上責任があるので手が抜けない。
親は頼りにならないので自分で解決するしかない。

そうやって「自分のためにやった。そうせざるを得なかった」だけなのに、「頼りにしてる(自分達に有益たれ)」と言われて怒りが湧いた。
私は私のためにこうなった、お前らのためじゃないのにどうして自分達に便利なように扱おうとするんだ、と。


思い返すと、任された役割をこなして褒められたり、感謝されることはあったのだろうか?
なにか、任された以上全うするのが当たり前で、褒められないし評価もされていないような…。

言葉などなくとも、「頼りにされる = 評価されている」と受け取れるはずと思っているのかもしれない。
実際、人に相談すると慰めるかのように「頼りにされてるのよ〜」と返されるわけだし。
(それは私の受けた苦痛より素晴らしいことなのか?と思うが)

◇どうして対応できなかったのか

では、「頼っているという言葉で、自分の苦痛やストレスが軽視される」というが、何故軽視されるのか。
どうして回避するように対応できないのか。


それは、以下のどちらかではないだろうか。

①相手は、私の苦痛やストレスなどどうでも良いと考えおり、無理に仕事を押し付ける。
②相手に苦痛であることが伝わっていない。

①は人を人として扱わない人間なのでどうしようもない。逃げるが勝ち。

問題は②のパターンである。


先日の記事の中で、私の認知の歪みである「問題がないみたいに振る舞わなくてはいけない(相手の望み通りにするべき)」について書いた。

つまり、頼りにされた場面でも、私は「無理です」と言ってはいけないと思っているのだ。相手の望みから外れる振る舞いは御法度だからである。


別の事象として考えていたのに、心理を深掘りしていった結果、共通の認知の歪みが出てきて驚いている。
しかし、だからこそ説得力がある気がする。

そういう事態を招く所以たる振る舞いが、私にはきっとあるのだ。
認知の歪みは気づくことが第一歩、少しづつ変化させていけるというが、緩和させていくことができるのだろうか。

自分にある認知の歪みについては、これからも記事にしていくと思う。

我に有益たれ

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