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どこにも行きたくないし、どこにも居たくない

昔話をしよう。

かつて、1年ほどドイツに留学していたことがある。学校の留学制度の網目をくぐり抜け、ゆるい審査で行ける、まぁお気楽な語学留学だった。

ちなみに、今はもうドイツ語は話せない。
当時はかなり熱心に勉強したが、満足してしまい、それ以降は別の勉強で忙しくなり、すっかり忘れてしまった。


留学したいと思った理由はいろいろある。
リスクが少ないうちに海外に長期滞在してみたいとか、本格的に外国語を学んでみようと思ったとか。


同時に、私には「ここではない何処かに行きたい」という願望もあった。





日本という国を、あまり好きではない。
同調圧力とか、対人関係とか、他人に目を光らせて非難する姿とか。


もちろん、日本は世界的に見て安全で治安のいい国だ。

もとより、私は愛国心や望郷の思いがない人間だ。日本が悪いというより、自分が生まれてきたことが好きじゃなくて、だから生まれ育った場所も好きではない。
それが、私が日本をあまり好きだと感じない理由だと思う。


それを理解したのは留学よりも後のことだ。
留学に行こうと考えていた頃は、きっとこう思っていた。

「日本の空気はあまり好きじゃない。海外はきっと、もっと良いところなんだろう」





確かに、ドイツは良いところだった。
ヨーロッパの中でも比較的治安の良いドイツの中の、更に治安がいい場所が私の留学先だった。

落ち着いた場所で、日本ほど厳密でなくともルールやサービスが機能しており、過ごしやすかった。

ここいる人達は、誰も私のことなど気にしていない。期待していない。関心など持っていない。
私は居ても居なくてもどうでもいい。

ああ、なんて気楽なんだ。




でも、1年も居れば気がつく。これは、私が「1年いるだけの若い異邦人の学生だから」なのだと。

長く住んで、ましてや働いたりすれば。
適した語学力やその国の常識を身につけた振る舞いが必要になり、人間関係ができ、他者と無関心でいるなど不可能なのだ。


この居心地の良さは、日本を飛び出し、海外に来たからではない。
「海外の方が自分には合っている」などという夢物語でもない。



日本にいる私は、何処かに行きたかったわけではない。
ドイツにいる私は、ここに居たいわけではない。
でも、日本に帰りたいわけでもない。

私は、何処にも居たくなかったのだ。



何処にも居たくない、存在したくない気持ちを「ここじゃない何処か、海外に行けば変わるはず」という、夢を抱いただけだった。





まぁ、若い頃に問題の本質に気がつけて良かったと思っている。

社会人になってから、「日本は窮屈!一念発起して海外で働くぞ!」となれば、私には大きな苦労が待っていただろう。
もちろん、海外で働くという目標は何も悪くない。
私の場合、問題の履き違えを起こさず済んでよかったね、という話だ。



思えば、
「ああ、私は何処にも居たくないんだ」
という気づきが、自分の抱えるアダルトチルドレンの気質、機能不全家族という問題に辿り着く大きなきっかけとなった。


1年間、宙ぶらりんで過ごしたドイツでは、考える時間がたくさんあった。
今思い返しても、良い1年間だった。

秋から夏にかけて滞在していたが、思い返して浮かぶのは冬の景色だ。何ヶ所も巡った、夜のクリスマスマーケットの光だ。



何処にも居たくなくても、何処かに行けば、見える景色が変わる。
私が居たい場所が見えてくることも、あるんだろうか。

窓の向こうの景色は
きっとここより良い場所のはずなの

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