序章 分裂と鏡像

生きていても
死んでいても
どっちでもいいんだよ
愛があるだけ

一千光年.いよわ

「今日までのあらゆる社会の歴史は階級闘争の歴史である」
と、マルクスは言った。同書の最後はこう締めくくられている。
「万国のプロレタリア(労働者)団結せよ!」
カント「永遠平和のために」の最後はこうだ。
「たとえ限りなく前進しながら近づくしかないとしても、公法の状態を実現することが義務であり、実現の希望にも根拠があるとすると、これまで誤ってそう呼ばれてきた平和条約(これは実は休戦に過ぎない)の後に続く真の永遠平和は、決して空虚な理念ではなくて、われわれに課せられた課題である。この課題は次第に解決され、その目標に絶えず接近することになろう。」

社会を本気で変えようとした人が”この私””この世界”で出会うことことができたこと、ただ、偶然性の必然性としてしかあり得ない、神の死を終えた世界の中、超越論的な「何か」に糸を引かれて、この郵便的な経路として世界が存在しえたこと、それはいみじくもニーチェが指摘した「運命愛」以外の何者でもなかろう。

テキストにできることはまだ存在するか?

パスカルによれば人を説得するには感情と理性によって訴えることが可能である、と。これらは内容によらない。つまりエクリチュール=形式が整いさえすれば、人は説得=洗脳することが可能なのだ。テキストを「読む」とは、内省-声へと光-波動という境界-媒介を郵便的な誤配可能性-量子的飛躍を灯しながら、あるシステム.A-アルゴリズム.AからあるシステムB.アルゴリズム.Bへと飛躍し、そのずれ-差異が、絶えず同一性-意識の地平へ、遡行的で抑圧されたものの回帰としてのアナロジー.類推的によって、決して音に還元されない「意味」という「遅延」が、ある計算時間を要しながら、結合形式は、固体化.増強される運動である。
東浩紀「存在論的、郵便的」は歴史上の資料であり古典として存在する複数性のあるテキストがイオニア、アテナイ、エジプト、ローマ、ドイツ、イギリス、アメリカ、そして日本へと「郵便」のように届いた、という事実に関する考察であると、まだ途中しか読んでいないなし、そもそも読解が下手なので誤読かもしれないが、私はそんな感じのことを言っている本であると思っている。
さて、この章ではテキストにできることはまだ存在するのか?を問うことであったし、それはポストモダンとしての現代2024年では困難な問題として立ち上がるのであるが、我々の歴史とはテキストがあちらこちらに郵便されることで、そしてテキストが可能とする反復-同一性が共同体を、社会を、宗教を、国家を、資本主義を超越論的に駆動してきたことは確かである。
柄谷行人が最近出した本である「力と交換様式」でもこの「力」を問題としている本であると、再度強調しておくが、「私(バカ)」は解釈している。
テキストとパロール-声は同一のものでもあるが、先ほどのパスカルの話を踏まえると、説得の技法として、前者はエクリチュールの形式は理性に属すが後者は感情に属す傾向にあるだろう。言語の持つ力は「力」はウォーレンバフェットの発言が株式市場に大きな影響を与え、youtuber.ヒカルの発言が多くの若者の心に刻まれ、パロールが憑依し、ミームと化す、など身近な事例からも考えることができる。一体、超弦理論やループ重力理論などといった数式の中のどこに自然言語的な「意味」によってマクロ-巨視的には駆動するといった要素が含まれているのだろうか。マクスウェルの悪魔は生命という形態で実現している、みたいな話を下の動画で発言されていたことを思い出すが、観測し、同一性.差異性に基づいて粒子を区分けするという「悪魔」は知性の働きと酷似していると言えないだろうか。

結局はマクスウェルの悪魔-生命-意識-知性=アルゴリズムとは、同一性=0と差異性=1という基本原則で駆動するものなのではないだろうか。ニューロンや電子回路も0.1で駆動することは周知の通りだ。

「鏡像フィードバックシステム」の誕生 または近代とその終焉

人間は人間を創造した。詰まるところ、人間による人間の創造があらゆる道徳.宗教の起源であると同時にそれは道徳.倫理の起源でもある、とだけ言っておこう。人間による人間の創造を生み出す思考システムのことをこの論考では「鏡像フィードバックシステム」とでも読んでおこう。そして、それは”なぜかは分からなが”作ってしまうものとしての「共同体成立」の超越論性とも並行している。人間による人間の創造とは哲学においてよく言われていた「他者性」のことでもある。柄谷行人は「独我論とは私に言えることが万人に妥当するかのように想定されているような思考である」と指摘しているが、これは「鏡像フィードバックシステム」に相当し、そして、共同体の成立原理でもある。「鏡像フィードバックシステム」は宗教や国家という形をとって、共同体の成立を担保してきた。フェイエルバッハは宗教とは人間の鏡であり、宗教とは自己疎外である、として批判している。社会契約という概念の始まりである「リヴァイアサン」の著者であるホッブスは同書で国家とは人造人間である、という。中世と近代の善悪システムを形成してきた両者は共に、人間の鏡でしかなかったのだ。
そして、人間による人間の創造はアダムとイブの犯した原罪に似たようものでもあった。それは善悪という道徳システムによっていつの時代も「神」や「民意」や「理性」から排外される者を生み出し続けてきたのであった。
「善悪の彼岸」にあるものをルソーは自然に求めた。人は人と群れないで、負債.負い目を感じようがなく、そこには責任や道徳が存在する余地はない。だがそこに批評を加えるとすれば、近代の自然.文明から自然を美化するのだが、自然状態、つまり狩猟採集社会にあった者達は「呪術的な」アニミズム信仰云々によって自然=神に対しても負債.負い目を感じていたのであり、そこには「鏡像フィードバックシステム」が存在する。
しかし再びルソーに戻ると、ルソーの自然状態における悪や善が存在しない社会の後に残るのは快楽と苦痛である。つまり動物への回帰である。

ところで現在私は22であるが、おそらく18か19ぐらいの頃に考えたある「構想」は、その頃と比べて本をある程度は読めるようになって、今、事後的に再解釈してみると、それは民主主義を否定するもの目的であったのに対し、逆説的にも極めてルソーの言説と一致していることに気がついてきた。だからどうなんだ、という話ではあるが、とりあえずまだ未完かつ脆弱性と自身の満足感、これで良いという確信が得られていないので公開するのはまだやめておく。しかし少しだけ触れておくとそれは「アナと雪の女王」に少し似ていることに気づいた。「アナと雪の女王」とは、能力-欠陥というパラドキシカルな構造によってマイノリティに陥り、アイデンティティ.主体性の発露が不可能な「部屋」に閉じ込められたエルサ=雪の女王は、ある「事件」をきっかけに、家を脱走し、城を建て、「ありのままの」姿を取り戻す。

しかし最終的には対比的に社会へ接続しようとする妹.アナとの「愛」に落ち着く、という話である。今の私は共生の道を自身の納得のいく形で理解したいのだが、当時の私は、城を一人で建てていた、と言える。「一人称世界」とでも読んでおこう。そしてこれは近代的個人を形作る私的領域を形成してきた印刷技術の大衆化、およびそれ以降のメディア、現代のスマートフォンによって実現されている、メタバース空間で匿名的に「動物化」している現代社会の流れの延長線上でもあること、そしてコロナ禍における緊急事態宣言によって自粛という私的領域で公的領域をテレワーク等によって実現するという社会の流れの延長線上でもあることに気がついた。
いや、私の話はこれぐらいにしよう。

二つめの自然とセキュリティの問題系 計算機自然と一人称世界

「鏡像フィードバックシステム」以後=ポストモダンは、ルソー的な自然-動物と、メディアアーティストである落合陽一が提唱する「デジタルネイチャー/計算機自然」が見事に融合しているのが現在の環境だと感じている。
「計算機自然」とは要するに、人間の環世界は科学という非鏡像フィードバックシステム-唯物論の絶え間ない進化によってAIを生み出し、それは不可能なもの、外部など哲学で語られてきた「超越的論なもの」がテクノロジーによって実装されつつある、という議論である。AIとは人間をテンソルレヴェルで見れば嵐や石と同一の現象であるとも言える、みたいな世界観で生きていると落合陽一は「脱近代宣言」で語っていた。
そして計算機自然とは呪術.宗教.王.国家という交換様式A.B(柄谷)に対するCの優位(資本主義)と「産業資本」(テクノロジーの破壊的イノベーションによる時間的差異を活用した利潤)によって従来の人間中心主義的な法が管理社会.アーキテクチャー的に実装される、という議論でもある。
要約すると、ルソーが夢見た自然は現代で言うと、人工物とサイバー空間に囲まれた「計算機”自然”」へと不可避的に包摂され、それは従来のルソーが嫌悪した「呪術.宗教.王.国家」という「文明」から、資源.エネルギー=自然の「限界費用ゼロ」的飛躍による計算機に包まれた、「自然人」が生まれつつある、のだ。それは東浩紀「動物化するポストモダン」で言われていた三人称的な「欲望」が消え、一人称的な「快楽」だけが残った「動物達」の群れへとポストモダンにおいては向かっていく、という議論とも並行している。

ここからが本題だが、その自然はルソー的な自然、つまり悪や善、負い目、責任などが存在しようがない「善悪の彼岸」なのか?。否、計算機自然とは「所有物」であり、かつ無限に開かれたアクセスによって、「人為」が常に生じうる。
セキュアであること、それは語源的に、世界への無関心であり、近代の起立訓練から管理社会へ移行した社会では、インターネットによって常にIPが追跡され、ポストモダンにおいては匿名的であることはできない、と東浩紀は指摘している。ビックデータという管理人による神の見えざる手によって我々は知らず知らずのうちにスマートフォンに脳を食われ、後ろから操り人形のように、操作された人生を送らされている。
無限に開かれたアクセス権は、サイバー犯罪の温床にもなりうる。つまり、計算機自然とは人々の利権が飛び交う文明の単なる写像なのだ。
そして計算機自然は「魔法の世紀」の到来でもある。それは落合の前著のタイトルだが、「冬になれば熊が冬眠する」という自然界における因果的認識が、計算機においては通用しないのである。チューリングマシン、電子.電気工学、ディープラーニングなどの原理を我々は全く知らないが、工夫されたユーザーインターフェースの登場によって、我々は通話し、動画を見て、SNSに投稿することができる。なぜだか分からないが使える、とは何が起こるか分からない、の言い換えである。超越する計算量によって飛躍する自然。

全体と一回性 ポストモダンと再建の倫理

近代の終焉はある意味では人類史の最初から胎児していた、と言えよう。人間ならざるものの到来。物象化である。それは個々の分子が独立に運動すると全体が完成する、というあの思想と似通って、ポストモダンにおける小さな物語-島宇宙の到来によって、人々は全体性を考えることがなくなり、私的領域でメタバースに閉じこもりだした。つまりポストモダンとは「一回性の喪失」のことである。ハイデガーの本来性.非本来性や頽落とは、一回性や実存に直結したことを「投企」として言動することの重要性のことだが、つまり死-有限性-一回性に向き合うことで人間の本来性が取り戻される、と。
テクノロジーを活用したアテンションエコノミーという小さな物語が跋扈する現代においてスマフォ脳的に情報処理が機械のリズムにチューニングされていく。果たして、そこに個人の主体性が介在する余地は生まれるのだろうか??
一度しかあり得ない人生。そこに死への配慮が介在する余地をうみ、このままではいけない、という自由-実存的不安=本来性が介在する余地を生む。
岡田斗司夫は、皆が働かないことで国家を縮小させる。それによって問題が出てくる。それを自分達で解決する。ここに意味がある。みたいなことを言っていたのをついさっきtik tokで聞いたのだが、これはポストモダン的、一回性の喪失への一つの解決策である。柄谷行人も「トランスクリティーク」において、労働者は、交換という命懸けの飛躍を必要とする場面、すなわち消費することと働くこと、この二つにおいて否を突きつけることが可能な点に主体性-能動性を認めていた。
他に案があるとすれば、社会問題への直接的な回路.アクセス権を導入することで、それは緩和しうる。東浩紀的観光地化計画である。宮台真司が崩壊を加速させよ、と言っているのも、その先にある再建のプロセスにこそ人間の本来性-実存的本質がある、という論理のもとだと私は思う。死のないことろに政治はない、と「観光客の哲学」では書かれていたが、死への配慮という一回性が、倫理への架け橋にもなると私は信じる。

問題を定める

私はこのテキストをテキストの意味を問うことから始めた。私という資源を活用して社会-人類に何か貢献できるものがあればいいなぁ、という素朴な感情から、この問いは始まった。以下では社会問題について考えていくこととする。
まず、社会問題において学者と市民の認識のすれ違いや一致など4つのマトリクスに以下のように分けることができる。

  1. 顕在的社会問題

  2. 偽の社会問題

  3. 潜在的社会問題

  4. 通常の社会問題

1と4は市民と学者が認識の違いはないが、2の場合、市民は社会問題だと感じているが、学者は違うといい、3の場合、市民は社会問題だとみなしていないが、学者はそうであるいう。
つまり社会問題とは相対主義的なものに陥る可能性を秘め、そして社会問題とは客観的にあるものではなくあくまで解釈側.主観性の問題である可能性を否めない、という訳だ。これを社会学では「ラベリング理論」と呼ぶ。
そして社会問題とは「社会」の問題であり「個人」の問題とは分別されるという点にも特徴があると私は思っており、例えば、足のつま先をぶつけたり、エアコンが暑かったり、といった問題は含まれないという点だ。
つまり、私は問題には3つの類型があると思っている、ということにも関係している。それは以下である。

  1. 自然型脅威

  2. 機械型脅威

  3. 人間型脅威

この3つを具体的に分析するのはいつかの記事に譲るとして、以下にとりあえず、問題を列挙してみることにする。

  • 貧困.格差.雇用

  • 空き家問題

  • 医療.介護.年金

  • 少子高齢化

  • 不況

  • 震災.原発

  • 犯罪.非行.児童虐待.動物虐待

  • いじめ.学級崩壊.不登校.学力低下

  • 性.人種.セクシュアリティに関する差別

  • 安楽死.尊厳死.臓器移植.中絶

  • 環境ホルモン.ダイオキシン.BSE.鳥インフルエンザ.地球温暖化.生物多様性

  • サイバー犯罪

これらの問題を解決することは大きなビジネスチャンスにもなりうる。問題を具体的に考え、具体的な解決策を見つけ出していくことが重要だ。

社会改革論

端的に社会を変えるにはどうすれば良いか、只今の社会制度から何が可能か、以下に列挙する。

  • 「政治」投票、著名、デモ、SNS

  • 「経済」労働、消費、投資、経営

  • 「革命」暴力や思想.啓蒙による制度への革命

これらを複合的.並列的に活用していくのが良いだろう。

しかし、私は今、わざわざこんなテキストを、書いている/書かされている。のでこう問わねばならない。
「テキストにできることはまだあるのか?」と。
私は「批評」とか言っている人はまぁやっていればいいと思っているが、それは「叛逆の神話」でも言われているように資本主義に取り込まれていくだけなのであるし、社会批評性のあるテキストはそもそも社会に存在しない状態が本来好ましいはずだ。

しかし、、、テキストにできることがあるとすれば、結局は、時代精神および作動しつつある社会構造への俯瞰と、それによって可能となる単なるガス抜きではない問題の根源的解決、を言語という魔法=宗教によって制度的.システム的に、実現すること以外にないだろう。
自然言語という魔法によって、人間という結局は物質に過ぎないものがマクロに見たら意味論的に、”動かす”ことができる、この神秘の力である。並行して、只今のテクノロジーが高度に発展した社会ではチューリングやフォンノイマンの偉大なる功績として、形式言語によって計算機という物質を”動かす”ことができる。自然言語や形式言語とは人間や計算機へのインターフェースなのである。そして、憲法9条を変えることは自然言語によってしかなせないことであり、空を飛ぶのは形式言語によってしかなせないことだ。
マルクス主義以降、大きな物語が廃れ、アイデンティティ.ポリティクスの台頭によって、フェミニスト.環境活動家.ヴィーガン、云々の小さな物語.島宇宙の中で小さな問題提起を行うという現状において上記のような時代精神.社会構造という大きな物語的な問題提起は、サバルタン問題とも関係していそうだが、思想の多元主義において、ローティ的なものにならざるを得ないし、であれば勝手に独立国家を作って、という加速主義の分離主義に近づく。それはつまり形式言語によって世界を動かすテクノロジー型問題解決の方向に近づき、それは加速主義がテクノロジー(AIやメタバース、遺伝子工学や精神転送、量子コンピューターやブロックチェーン)の文脈を踏まえた言説になりがちであることと並行している。
これはつまり私の言葉で言えば「鏡像フィードバックシステム」の終焉と脱近代としての「計算機自然的包摂」である。

始まりの地へ

ここで、我々は最初の「テキストにできることはまだあるか」という問いに戻りつつ、さらに問いを進めて、私をテキストへ向かわせている「起源」でもある、「古代ギリシア」という地で起きた出来事へと思いを馳せ、そして、こう問わねばならない。全ての始まりと言ってしまっても良い人物、”ソクラテス”は”なぜ書かなかったのか?”、と。
しかし長くなったので、それは次回の記事に譲ることとする。

まぁ、問題の現状と整理を自分が何を行動と規範とすれば良いか、を明確化させる目的でこの記事を書いてみたわけでもあるが、とりあえず、社会問題一覧だけは暗記してこのテキストから日常へ帰ってもらえることで、一回性-実存、そして再建の倫理を少しでも回復してもらえれば、わざわざ3.48分まで起きてこの記事を書いた意義も出てくるというもの。

#スクショ推奨↓↓↓↓↓↓

  • 貧困.格差.雇用

  • 空き家問題

  • 医療.介護.年金

  • 少子高齢化

  • 不況

  • 震災.原発

  • 犯罪.非行.児童虐待.動物虐待

  • いじめ.学級崩壊.不登校.学力低下

  • 性.人種.セクシュアリティに関する差別

  • 安楽死.尊厳死.臓器移植.中絶

  • 環境ホルモン.ダイオキシン.BSE.鳥インフルエンザ.地球温暖化.生物多様性

  • サイバー犯罪





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