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六歌仙のなぞ(番外編)後

◆宇治若郎子と惟喬親王◆

 「わが庵は都のたつみしかぞ棲む、世をうぢ山と人は言ふなり」
                          喜撰法師

 うぢ山は宇治山で、そこはし場所と思われていたらしい。その宇治の名を持つ皇子がいる。応神天皇の皇子、宇治若郎子うぢのわかいらつこ(菟道稚郎子)である。
 応神天皇は宇治若郎子を皇太子に立てたが、父の崩御後、若郎子は帝位に就かず、兄の大鷦鷯おおささぎ尊に譲ろうとした。兄はそれを受けず、若郎子も即位せず、互いに譲り合って三年が過ぎた。若郎子はこのままでは天下が乱れると、自ら死んだ。大鷦鷯尊は即位して仁徳天皇になる。
 そして、宇治若郎子は「宇治山」に葬られるのである。

 本居宣長は『玉の小櫛』の中で、『源氏物語』の「宇治十帖」の宇治の八宮(桐壺帝の第八皇子)は、宇治若郎子をモデルにしているといい、文徳天皇の皇子惟喬親王に準拠しているともいう。また、薫は在原業平の面影ありという。
 八宮は皇太子になる機を失って、宇治に隠棲する。惟喬親王は父文徳天皇が皇位継承を望んだものの、結局弟が皇位を継ぎ、出家して小野の地に隠棲する。
 八宮は宇治の阿闍梨の教えで、念仏三昧の日々を過ごす。薫はそんな八宮を訪ね、八宮から仏の教えを聞く。在原業平も、雪を踏み分け、小野宮を訪ねていく。
 紫式部は記紀や故事古典に通じていたので、自分の作品の参考にしたのかもしれない。

 宇治若郎子に話を戻すと、皇太子でありながら、兄に遠慮して、最終的には自死してしまう。対して惟喬親王は、逆に皇太子の弟と、皇位をめぐって対立関係にあり、天皇や周囲に期待する人々もいたが、失意の内に出家する。

宇治若郎子と惟喬親王の時代は鏡写しの関係にある

 惟喬親王のことは歴史書にのる事実といっていいと思うが、宇治若郎子の物語は、史実というより伝説的要素が濃い。
 若郎子の母は、和迩わに(和邇、和珥)の宮主矢河枝比売みやぬしやかわえひめ(宮主やか媛)である。この伝説は和迩氏に属するのかもしれない。小野氏、柿本氏は和迩氏である。宗教、芸能とかかわりの深い和迩氏は、こうした伝説を語り継ぎ、それが記紀に載ったということだろうか。

◆若子――慿坐としての人麻呂◆

 宇治若郎子の宮所の歌一首
「妹らがり、今木の嶺に茂り立つ、つま松の木は古人ふるひと見けむ」
                         柿本人麻呂

 古人とは故人のことで、宇治若郎子のことである。若郎子という名は若子を思わせる。若子とは童形の慿坐よりましのことである。尸童、降童、慿子ともいう。
 柿本人麻呂は、なぜか柿本若子と呼ばれることがあるそうだ。大和岩雄氏は「人麻呂を『若子』と呼ぶのは、歌は本来、神の言葉を伝えるものであって、歌のひじりの人麻呂を『ヨリマシ』とみてのことであろう」という。ならば、宇治若郎子にも、慿坐の若子の性格があるのだろうか。

 柿本人麻呂には、樹下童子伝説がある。石見国美濃郡戸田郷小野の綾部某という人の裏庭の柿の樹の下に神童が立っていた。これが、柿本人麻呂というのである。人麻呂は母親から産まれたのではなく、樹の下に忽然と現れた。ここでは、人麻呂は禿髪の童子姿で、まさに若子なのである。
 樹下童子伝説では、例えば小野篁が竹林に童子姿で降臨したとか、菅原道真が梅の樹の下に童子姿で降臨したなど、異能の持ち主(優れた詩人、歌人など)は、やはり生誕も異常で、神の申し子=神に近い子という思想が底にある。

 人麻呂は入水自殺をしたと思われる。若郎子も宇治川に身を投げたという伝説がある。二人には、エビス神(蛭子神)のイメージがある。蛭子神は穢れを背負って海に流され、一方エビス神は海の彼方から幸いをももたらす客人神である。
 宇治若郎子の伝説は、柿本人麻呂と惟喬親王の伝説に影響を与えていることがわかるだろう。

◆住吉神――老翁としての人麻呂と業平◆

 人麻呂は老翁姿で描かれることが多い。人麻呂は『古今集』で、歌のひじりと書かれている。道教において、仙人は不老不死の法を修める者だ。不老というならば老人姿というのは矛盾しているように思う。実際は童子の仙人もいるが、たいていは白髯はくぜんの老翁姿で表される。
 人麻呂も、貫之が「歌の仙」と云ったことで、仙人=老翁という連想になったのか。それとも、貫之の時代には、人麻呂は既に伝説化が進んでいて、その老翁というイメージが「歌の仙」という表現に結び付いたのだろうか。

 日本神話で老翁の神といえば、塩土老翁しおつちのおじや住吉神などで、どちらも航海の神である。
 『大日本哥道極秘傳書』によると、「住吉大明神 人丸ト現シ 人丸 亦 業平ト現ス 是 三人之翁ト申」とあり、人麻呂と業平は住吉神の化身というのである。
 人麻呂と業平は「一躰二名」と『玉伝深秘巻』もいう。また、「人丸、化して業平となる」とも書く。人麻呂も業平も歌に優れた人で、両者ともに天皇の后と密通し、その罪で東国に流されたという伝説があるからだろう。
 では、なぜ住吉神の化身といわれるのか。

 住吉神は一方で、武内(竹内)宿祢とも同体とみられていた。武内宿祢は景光、成務、仲哀、応神、仁徳に仕えたという、まさに不老長寿の仙人的な人物である。応神天皇の母は神功皇后だが、父は仲哀天皇ではなく、武内宿祢という説がある。つまり、武内宿祢も天皇の后と密通するという意味で、人麻呂、業平の伝説と通じるのである。

 上図では、文武天皇が人麻呂の、陽成天皇が業平の子のようになっているのだが、江戸時代中期に書かれた『大日本哥道極秘傳書』によると、人麻呂の父親は文武天皇なのだという。どう考えても文武天皇の方が年下なので、これはおかしい。しかも、人麻呂は文武天皇の母の持統天皇と密通して、配流されたというのである。これが、人麻呂と持統天皇との間に産まれたのが、文武天皇だというのなら、まだ、すっきりするのだが。とにかく、ここは人麻呂が貴種であるということが、肝心なのだろう。

 一方、陽成天皇だが、『大日本哥道極秘傳書』では、二條后(藤原高子)と業平の子と書かれている。しかし、業平は東国に下ることなく、高子の実父長良卿の知行所の、加茂の橋元岩元に隠れ住んだ。そこで自らを主人公に書いたのが『伊勢物語』なのだという。伊勢というのは、二條后の侍女に伊勢という人がいて、それを題名にした。
 こちらはありそうな話ではあるが、真実かどうかよりも、肝心なのは后と密通し、その結果遠国に流され、后は天皇を産むというところにある。この場合、武内宿祢、人麻呂、業平は外界から訪れる客人神であり、皇后は神を迎える巫女である。客人神は、贈り物(子)を授け、一夜を過ごしたあと、異界へ去る――遠国へ流されるのである。

 住吉大社の主祭氏族の津守宿祢は尾張氏族だが、尾張氏の祖の世襲足姫よそたらしひめと孝昭天皇の間にできた天足彦国押人命あまたらしひこくにおしひとのみことは和迩氏の祖である。神功皇后と住吉神(武内宿祢)の聖婚(八幡神の誕生)の伝説も、和迩氏が関り、広めた可能性がある。住吉神は航海神で、和迩氏は海人族だからである。

 さて、仙人ということで連想するのが、紀仙こと喜撰法師である。宇治若郎子の葬られた宇治山に住んだといわれる喜撰は、なぜ自らを仙人と名乗ったか。それは歌の仙の柿本人麻呂を意識してのことだったのか。もし、柿本紀僧正真済が喜撰だとしたら、紀貫之もその深意を知っていたのではないだろうか。
 真済は死後、天狗になって染殿后を犯す怨霊となる。これは、后と密通する貴種(神の化身)の別のヴァージョンといえるだろう。
 こうした伝説の「創作」に、紀貫之や紀長谷雄のような、学識と文才をもった人物が関わった可能性は高いのではないか。当時、庶民は記紀や中国の史書や故事に触れる機会はほぼなかった。こうした知識を駆使して、実在の人物を伝説化できるのは、僧侶か公家か、限られた身分の人間だけだろう。こうして作られた「伝説」は、聖や巫女や芸能を生業とする者(職人も含む)など、漂泊する人々によって、「伝承」されていき、それが更に様々なヴァリエーションを生んで、拡散していったのだ。

 はるか古の若郎子や、文武朝の人麻呂の、既に伝説化された話を元ネタとして、紀貫之は六歌仙のうち、特に小町、業平、喜撰のことを『古今集』仮名序に記し、惟喬親王を若郎子と結びつけ、新たな伝説の創造を試みたということだろうか。

古代、奈良時代、そして平安時代の人物関係の相似形


柿本人麻呂がつなぐ関係図

◆文屋康秀の解明されない役割◆

 これまで六歌仙といわれた六人の歌人の、紀氏との関わりについて、いろいろと考察してきたが、その中で、文屋康秀だけは、あまり触れることができなかった。小野小町と歌を交わしたこと、二條后を通じて、業平や遍照と間接的なつながりがわかっただけである。また、紀氏とのつながりもはっきりしなかった。

 文屋康秀を、承和の変で流罪になった文室秋津や、新羅の商人と反乱を企てたと讒言され、伊豆に配流された文室宮田麻呂と同族であり、紀氏同様、藤原氏によって没落させられた氏族として、六歌仙に選ばれたとする説がある。文室宮田麻呂は後に御霊として祀られてもいる。これは「六歌仙のなぞ」をワープロで書いた二十数年前の当時も、知ってはいたのだが、文屋氏と文室氏が同じ氏という確証がなかったので、保留にしていたのだ。保留にしたまま二十年たってしまったが、どの本を読んでも文屋氏は文室氏と同じと出てくる。これを信じれば、やはり没落貴族代表として、康秀は選ばれたのだろうか。

 伝説の創造と伝承という点で探ってみる。

「文屋康秀は、ことばたくみにして、そのさま身におはず。いはば商人あきひとのよき衣着たらむごとし」          『古今集』仮名序

 言葉は巧みだが、身についていない。商人が分に過ぎた服を着ているようであるというのが、貫之の評である。康秀は、元慶九年[885]縫殿助に就任している。縫殿寮は女官の名簿管理、勤務態度や品行を調査したり、衛士や女官の御服(制服)の裁縫等を監督する役所で、縫殿助は頭に次ぐ官である。仮名序の「よき衣」とは、縫殿助だったことも念頭にあったかと思う。

 この縫殿寮には、猿女も属している。猿女君は大嘗祭の前日の鎮魂の祭りで、百人の歌女うためを率いて神楽を舞い、歌うことを供すという。猿女は和迩氏系氏族(小野氏)からも貢進されていた。猿女氏や小野氏は神話伝承を歌舞を通して伝える氏族である。

 紀貫之が伝説の作者としたら、猿女氏、小野氏(和迩氏)はその物語を語り、歌い舞いながら広める者たちである。
 例えば、小野猿丸という伝説のキャラクターが主人公の『日光山縁起』で、猿丸の祖父、有宇ありう中将の名は在原業平から採ったという。有宇のアリは在原のアリであり、業平も中将だった。また、有宇中将が奥州へ左遷されたというのも、業平の東下りから派生している。猿丸の父は馬頭中納言といい、これは業平が『伊勢物語』の中で「うまのかみ」だったことに由来するともいう。こうした伝承を広めたのが、小野神人だったのである。

 大嘗祭の猿女君を所管する縫殿寮の次官だった康秀は、具体的に、伝説の原作者と、それを伝承、拡散する宗教的芸能者である猿女氏、小野氏(柿本氏)和迩氏を結びつける役割を果たしたのかどうか。
 縫殿助になる前、康秀は東宮妃藤原高子の歌会に出席している。身分がそれ程高くない康秀も、そのような機会を通じて雲上人と接したり、小町のように後宮に宮仕えした女性との交際を通じて、男性が見ることのできない、後宮の裏話を聞く機会があったろう。
 それら庶民の知らないゴシップネタを、「ことばたくみ」な康秀が、例えば長谷雄や貫之などの伝説の作者に提供したり、猿女に提供したりというようなことが、あったのか無かったのか。残念ながらそれはわからないし、まして貫之が仮名序で康秀を六人の歌仙に選んだ理由が、そのことにあるのかどうかもわからない。
 ただ、なぞなぞのような仮名序の康秀評から、そんな可能性も無いとは言えない、と思うのである。

                                 了


参考文献は前出の拙文「六歌仙のなぞ」と同じです。
六歌仙のなぞ(16)|土偶子|note

  


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