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於岩さんが生きてた頃━━江戸時代始めました②

 『東海道四谷怪談』の実在のモデル、田宮於岩さんが生きていた時代は、江戸時代の始まりの時期と重なります。政治の新しい中心都市として、江戸はどのように造られていったのでしょうか。


 天正八年[1590]家康が江戸に入ってすぐに、江戸城を改造するための物資を運び込むために、日比谷入江と平川の下流を結ぶ堀が作られました。道三堀といいます。物資が集まる場所には商人も集まります。元々道灌の時代からこの周辺は港町でしたが、徳川氏が入国したころは城の大手の近辺に百軒ほど茅葺の家があるだけでした。そもそも砂州や湿地ばかりで、人が住める土地が少なかったのです。

 また、人が大勢暮らすためには塩が欠かせません。江戸の塩は行徳(千葉県)から船で運んでいましたが、江戸湾は浅瀬が多いため、深川に小名木川の運河を作りました。
 のちに元和七年[1621]に小名木川の東に新川を開削し、新川、小名木川、道三堀と、下総と江戸城を東西につなぐ水路を作りました。

天正十八年~十九年頃[1590~91]
国土地理院の地図に土偶子が作画

 家臣が住む土地も造らねばなりません。天正十八年、十九年の内に、箱崎を埋め立てて武家地を作りました。しかし、それだけでは足りません。
 三河から来た家臣の内、大禄の者は麹町、青山、丸山、本郷、下谷、小川町など、少し城から離れた場所に武家屋敷を作って住まわせました。
 小禄の者は平川村のある芝崎口(神田橋)や、千鳥ヶ淵の西の番町、桜田村に士衆屋敷あるいは番士屋敷があたえられました。

文禄三年[1594]頃

 田宮家の初代はどこに住んでいたでしょうか。四谷の西の甲州道の周辺は一面茅野原でした。御先手組頭の諏訪左門はそこを開発して組屋敷を作り、部下たちも周辺に住まわせます。そこは左門殿町と呼ばれ、後に左門町になりました。
 御先手組は弓や鉄砲を持って戦の先鋒(先手)を勤める、武士としては軽い身分です。江戸の西部は上の地図でもわかる通り、川や谷もなく防備が手薄なので、彼らは防衛の最前線を固めるために、四谷の西側に配置されたのです。
 田宮家は御先手同心なので、初代から現在の四谷於岩稲荷田宮神社の辺りに住んでいたのです。辺りは原野だったところですから、最初はいろいろと不便で苦労したことでしょうね。

 城の普請では、道灌時代の空堀をいくつか埋めて土地を広げ、城下のつぼね沢にあった十六か寺をよそに移し、そこに家康の隠居城を作りました。のちに西丸と呼ばれます。
 しかし、文禄三年[1594]伏見城築城を秀吉に命じられ、江戸城の工事は一時ストップしてしまいます。
  局沢や城の周辺にあった寺は神田台、矢ノ倉(日本橋一丁目)に移転させました。

 天正十九年[1591]銭瓶橋(道三堀と日本橋川の交差するあたりにあった橋)の近くに、伊勢与一という人が江戸で最初の風呂屋を作りました。江戸開発の為に多くの人が集まっています。風呂屋は必要ですね。

 必要といえば、同じころ、常盤橋外に牢屋敷が作られました。いつの時代も犯罪が無いときは在りません。この牢屋敷は慶長年間に伝馬町に牢屋敷が作られるまでありました。
 奉行所はどうかというと、初期の頃は奉行の邸宅に白洲が作られていたようです。南北町奉行所ができたのは寛永八年[1631]のことです。
 初期の刑場についてはわかりません。小塚原や鈴ヶ森の処刑場は、それぞれ慶安四年[1651]、万治三年[1660]に設置されましたが、それ以前は決まった刑場はなかったのでしょうか。

  文禄三年[1594]十一月、隅田川に千住大橋が完成しました。これに伴い、奥州街道、水戸街道、佐倉街道はこの橋を通るように付け替えられました。於岩さんが生きていた時代、防衛上の理由から、千住大橋は隅田川に架かる唯一の橋でした。
 両国橋(大橋)などが作られるのは、明暦の大火の後になります。大火で大勢の逃げ遅れた人々が隅田川で死んだので、幕府も橋を作ることを許可したのです。

                               つづく


●地図について
 
各時代の川筋や池や海岸線などは複数の資料を基に描いていますが、資料により差異が大きく、正直どれが正解なのかわかりません。したがって、あくまで推定ということでご了承ください。


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